和 賀 心 時 代 を 創 る


第三章 壮 年


信心のめざめ

親以上の親

それから私はね、本気の信心とでも申しましょうか、いわば本気での信心がなされることになってきた。

そして神様にお願いをした。お取次を頂いた。

親先生、両親が亡くなりましたら、またその翌日から元の木阿弥に戻って結構ですから、どうぞ両親がおる間に、白い米の飯とは申しません、それこそお粥さんでもよいから、腹一杯、食べさせられる、親と子に食が与えられるならほかに言い分はなか、そういうおかげを頂きたいというお願いをさして頂いた。

それから「大坪さんの信心は熱心だ、熱心だ」と言われるようになったのは、その頃でございました。

ところが、だんだん本気での信心の姿勢が向こうてまいりましたら、今までと話の頂き方が違う、受け方が違う。本気で道を求める、本気で偉い先生方の話を聞こう、読もうという姿勢になってまいりましたら、これは親以上の親のあることに気付かせて頂くようになりました。

もう徹頭徹尾、親先生、親教会ですね。親教会の発展の為、一生懸命祈らしてもらうという信心に変わらして頂く。それから間もなくそういう時代になっとります。


親教会記念祭

ちょうど私どもが引揚げて帰りましたその年が終戦の翌年でして、親教会の開教四十年の記念祭が仕えられるということになりました。

それで私も半年前に企画されておる記念祭の話合いに出席させて頂きました。そこでその会が終わりますと同時に、親先生にお取次ぎ頂いて、 「親先生、今日を境に私がいろんな仕事をさしてもらう、もちろん商売より他に出来ませんから、それをやらしてもらうが、私の上に現れて来るところの収入、収益というものは、半年後の記念祭の為にお使い頂きたいと思います。最少限度のギリギリの生活費だけは頂きますれど」と言って、私はお取次ぎを願いました。

その当時、筑後地方の特産品でした水石鹸、ローソクの出張販売を思い立ちました。

乗り物の上まで、または宿屋の上にまで、それは何とも言えぬおかげを頂いた。そしてもう一つ不思議なことはですね、出張先で宿をとらせて頂いとるところが教会の近くでした。そこの女中さんに

「長崎の教会はどこですか」

「佐世保の教会はどこですか」、と言うと

「ほんなすぐそこですよ」、というようなところに不思議に泊まっておる。

神様がこういう御働き、こういう御守護のなかにあっておるんだから間違いはない、矢でも鉄砲でも持って来いという勢いの商売でした。だからソロバンの上では随分儲かったはずでこざいますけど、さあ二カ月たち、三カ月たってまいりましたら、一つも儲けが儲けにならんことが、次々と起きてまいりました。

引っ掛かりが出来た。水石鹸のため、向こうに着いた時は小さくなっているから、見本と違うとか何とか言って返品してくる。とにかく収益にならないのです。

十二月の八日が御大祭で、もういよいよあと一ヶ月しかない。もう十一月に入った。

そこで私は神様に少し文句を言い出しました。

私はこんなに一生懸命の思いで記念祭、記念祭と思いを込めて、しかもこうやっておかげを頂かして頂いておりますが、成程おかげと思う事は沢山あるけれども、それと反対の事が起きて来るとはどういう訳でしょうか。

「神様の真意が知りたい、御心が解かりたい」そういう思いでございました。


天地との対決

それから、親先生に商売に行くとお取次頂いて、両親にも実際そう申しましてね。それからひとつ山の中にでも篭もって、天地の親神様と対決して、そこの訳を分からしてもらう。五ヶ月もこうやって使うとって、いっちょも(ひとつも)おかげ下さらんという訳です。

忘れもしませんが、私はこの耳納山の中腹のところまでまいりました。それこそ十一月というのに凄まじいまでの雷雨です。それはもう山での雷さんとは凄まじいですね。それこそもう真っ暗になるのです。

それから降りだしましたが、ちょうどその中腹にお滝場があって、お篭堂のあることを知っとりましたからね。そこに駆け込みました。

そこで二日間、過ごさして頂いた。お滝を頂いて、お粥さんを自分で炊いて頂きました。ところがそのお篭堂には先客があって困りますから、もうひとつの小さい観音堂に移りました。扉も何もないけれど、そこで毛布一枚で、それこそお滝の水を頂いて、大祓をあげて「生神金光大神さま」と一生懸命。

二日目の朝でしたね、お夢を頂いた。そのお夢がね、ちょうどこの一間真四角ぐらいの石造った井戸でした。こう見ると深いけれども、底まで透き通って見えるような、きれいな水があるんです。

しかもその井戸の中にね、その井戸一杯と思われるような大きな鯉が泳いでいるのです。見た瞬間にね、私は思うた。記念祭のお供えはこれだと思うたんです。

そして私はどんなにしているかと言うと、おもむろに井戸の縁に上がってですね、井戸の中に立小便をしている。そして「しまった」と言いよるとですよね。そこで目が覚めた。


無条件

皆さん、こうお聞き下さりよってから、ははあ、それはどういう事であろうと大体見当がつかれますか。私はお道の教師を志す者ならね、そういう勘が働かにゃいかんと思うのですよ。

四神様は、たとえば「流行歌の中からでも」とおっしゃるでしょうが。

「子供の泣き声聞いてでも神がものいうて聞かす」とおっしゃるから、私どもは道を歩きよっても、そういうふうな勘を鋭くしていくことが必要だと思います。

私は目が覚めてからすぐそれを思うた。本当に神様がどうして、どうしてと思いよったけれども、なるほどと思うた。

なるほど半年間もかゝって大祭奉迎のための真心一心と思うておったけれども、私の心の底にはどういうものがあったかと言うと、「神様、この四十年の記念祭は私が真心いっぱいに仕えますから、このお祭りがすんだら、私におかげ下さる番ですよ」というようなものがあった訳です。

記念祭には一生懸命で、皆さん、よく言うでしょう。この記念祭に徳を受けて、と同じなんですよ。だからそういう徳を受けてとか、そういうことでおかげを受けるということを考えたら、もうそれは井戸の中へ立小便をするようなものなんです。

それから私は本当に無条件になりました。お取次頂いて、お詫びをさしてもらいました。五ヶ月どうにもならなかった問題が、一と月間にまたたく間におかげ頂いた。そのように私の信心というものが、親先生を中心、親教会を中心ということになってまいりました。



順 風

福岡に出る

それからローソクとか石鹸じゃない、もう少し利益の多いものというので、当時は繊維品が御法度でしたけれども、それを扱うと金になるというので、大阪まで仕入れにまいりましてはそれを「金桝商事」という名で売り出しました。店の方達は広島さん、下津さん、河野さん、私の四名で、いわゆる闇商売を始めました。ここ一年間、その時分にはもう置いたものを取るようなことでしたね。

私はその当時、給料を支払ってしまいましてね、残ったもの全部がお供えというのが、私の主義でした。

福岡に行った当時、金桝商事という店を作りました。私方の酒屋の屋号が桝屋でした。それと金光様の「金」を頂いて、金桝商事という、商事会社じゃないけれども、そういう名刺を持って回る訳です。資本がある訳ではないから、他のところではもう売り切らない、売れないものをそれを見本に預かって売って歩くというような商売でございました。

このブローカーというものは実に面白い。そのかわり嘘もこれ以上の嘘があるじゃろうかという様な嘘も言いましたし、ある時分には、そこに信徒会長も居りますがね、随分私からだまされた人ですよ。(笑声)けれども私は詐欺じゃないですもんね。まあ詐欺の一歩手前位のところです。それで自分は商才があると思うておった。それが、先程から申しますように他人が十銭で売るなら十一銭で売るという信念なんです。信念もいろいろありますからね。(笑声) 私が福岡に、単身でまいりました。四、五日分位のお米と、それと身の周りのものだけを小さなつゞらに入れて持って。一番先に行ったのが福岡教会でございました。福岡教会は、御承知のように親先生の奥様の御里でございますから、もういうなら親戚付き合いのような教会でございます。

ですから、そこを根城にして家も探そう、商売の道も立てようという腹があったんです。

それで、まいりましてから吉木辰次郎先生に「今晩からここにお通夜をさせて頂こうと思います。宜しくお願いします」と言うたら、それこそけんもほろゝにですね「大坪さん、金光様の信心にはそげなお通夜てんなんてんはなかばい」と言われました。「はあ、そうですか」と言うて泊まるところがなかです。それなら御祈念するとなら良かろうと思って、私は動きませんでした。

もう戸がどんどん閉まりよるです。神前の幕を張ってしまいなさる。ばってん御祈念しよる。だから先生もどうも仰られようもなかったんでしょうね。お通夜じゃない、御祈念し通すのじゃということでした。そしたら、もう一時も一時半もなってからだと思いますけどね、ちょっと頭を上げましたら、福岡の教会は前に白い幕が張られます。その幕の陰からね、私を手招きしておられるのです。私はびっくり致しました。親先生です。「大坪さん、そこに床とってあるから早う寝らんな。」と云われる。私は、おかげを受けられる先生は違う、と思いました。私のそうした切実な止むに止まれぬ思いというものを聞いておって下さった。お取次をしておって下さった。けれどもね、金光教のあり方というものをはっきり教えながら、私が動かんもんだから、その間、御自分もやっぱり御祈念しておって下さったんだなあ、と本当に感激しました。

楽室に床をとってございましたけど、とても眠れませんでした。それからまもなく親先生のお一人の御祈念がありました。親先生の御祈念に併せて朝の御祈念を頂いた。それから朝食などもよばれました。


布袋さんのような人

それから、当てのないところへ出なければならぬ。資本はない、商品もない、自転車もない。それからまあ足の向くまゝ荒戸の教会を出て東の方へ向かいました。博多の町なんか私は全然知らない町なのです。荒戸から東の方へまいりますと、簀子(すのこ)町というところがあります。そこら辺は、終戦後に簡単な家が沢山、建っておりましたが、そこに何か寄ってみたい感じが致しましたら、丁度、私を一回り大きくした、布袋(ほてい)さんのような感じのおじいさんが、小さい部屋にあぐらをかいて、お茶を二、三人の人と飲んでおられるのでございました。そこへ入ってまいりました。

「私は久留米の者ですけども、商売をさせて貰いたいと思うが何か良か話はないでしょうか」

「あんた、何ばしなさるな?」

「はあ、商売なら何しても良か自信があります」

「あんた、乗り物はあるとな?」

「いや、なかです」

「福博の町ば歩いて回ったっちゃ商売になるもんか。物置ば見てみらんな、自転車が一台入っとるけん、それば使わんな」

「入っとりましょうばってん、あたしゃ今、金も持ちません」

「良かけん使わんな。そしてここにはいろんな品物が集まるけん、時には寄んなさい」

見も知らぬ私にいろんな世話をして下さった上に、立派な宮田製の自転車まで貸して下さった、 その人の名は簀子町の「御立(みたて)九四郎」という人でした。その後、その人とは偶然に又縁がありましてね。

椛目(旧広前)の建具を作って下さった方が期せずしてその方の工場でした。「そんならば、三日間待って下さい」と言って商品見本と自転車を借りて、それから福岡での生活が始まった。


闇商売

私は三日目で、それを全部支払って、それは五千何ぼでしたが、全部払わしてもらいました。それから商売が段々面白いようになってまいりました。「もう一人入れんならん、もう一人入れんならん」と、いうたびに自転車を一台づつ、まあ今なら自動車というところでしょうがね、求めることが出来る程しにおかげを受けました。もうそれからのおかげというものは置いた物を取るようでした。

闇商売ですからね、いろいろ引っ掛かりもしましたがね、その度におかげを受けてまいりました。

例えば、大阪に仕入れにまいりますとね、帰りにはもうそれが引っ掛かる、闇ですから。それはこっちは心臓で行きますからね、もうそれは、私はほんと、あの時分の心臓というものは大した心臓でした。その当時は軍需物資の毛糸が沢山ありました。それを店の方達は小さいトランクに押し込んで行って、日当になる位に儲かりました。それを私は十ポンド入りをですね、もう只新聞に包んで両方に下げて行きよりましたから。本当ですよ。それであなた、人の十倍位儲かる。そして私はもう引っ掛からんと思うとる訳ですね。ですから、私は感じが違うんですね、警察の人達が見ても。そういう言わばおかげを頂いておりましたが、その一年後から反対になって来ました。私の上にだけ引っ掛かりが出来てきた。

まあその中の一例を申しますとね、私は大阪から絹製品を沢山仕入れてまいりました。それで見本に十反ばかり持って汽車に乗り込んだ。それを山口の辺りで警察が目をつけた。「これは化学繊維です」と私が申しましたら、「ほう、これは化学繊維ですか」分からんごとある風でした、絹物とは。私は化学繊維で通ったと思いよった。ところが、今度は門司に移ると、あれはどうもおかしいからと、山口から言い渡しがあっていたらしいですね。今度は、門司の警察がそれが詳しかったです。「こりはお前、化学繊維てんなんてん、これは本な絹物じゃないか。(笑声)兎に角降りれ」と言うので、門司の警察に降ろされた。けれどもその時、調べを受けとる時に、この草野の吉木(私の村の上の方)の人だという人がね、「私は吉木の者じゃけん心配せんでよか。破廉恥罪じゃないけん良かがの」と言うてくれました。それで心強うはあったけれども、一日中そこで留められましてね。

まあ、そういう風でした。

それから一年後に、門司の警察から丁重な手紙がまいりましてね、開けてみましたところが、是非一遍お出掛け頂きたい事が起こったと、こう言うのですよ。というのは、その押えてある物資を入れた倉庫に泥棒が入ったという訳です。私はその時に没収されていたのは、ミシン糸とタオルと絹物でした。そのタオルを何ダースか盗み出されておる訳です。だからね、もう検事局の方にも回されなければ、私に返す訳にもいかん、私に断りを言うて返さなければならんという訳になったのです。それで行ったら普通の時と違いますもんね、偉い人のところに連れて行きなさいます。そして「実はこんな申し分けのない事が起こっとりますが」と言うてから、「何ですか」と聞いたら、そんな訳です。「だから、ひとつこれはこのまま黙って持って帰って下さらんか」と言う。考えてみるとそれはもう、こげな有難い事はないですからね。それで私は居りなさる人達にタオルだけはみんな配ってきました。

そして、その日が何と小倉の大祭の日でした。

そしてそれが終わって、小倉の大祭を拝みました。そしてもう帰りには、小倉の闇市場でもうそれこそ十倍位になって売れました。それがね、四、五万金が足りなかったという丁度その額でした。まあ、いうならそういう調子でした。そういうおかげですね。これは今に続いております。

だから、私は合楽でのおかげはね、どうも真実性を欠くごとあると言うのですよ。

本当じゃないごとある。

こういう例は幾つもある。いちいち例を上げるなら限りがございません。

久留米の検事局に呼ばれる時もそうでした。その時に、私は九州中にですね、当時ガーゼの手拭いとかタオルとか流行(はや)りました。あれを私が一手に引き受けてから入れておったです。それが挙げられた。それで結局、検事局まで送られるごとなって、私が検事局に呼ばれた日が何と人間尊重の日でした。(笑声)ですから、えらい丁重にされますから、どうしてだろうかと思ったら、なに、今日は人間尊重の日だって。そして胸には赤い袱紗(ふくさ)に包んだ金光様の御神米を入れとりますからね。そしたら一番口に「それは何ですか」と聞かれますから、「いや、私は金光様の信者で、こうこうだ」と言うたら、「ほう、私は梅津というですがね、私の母は荘島からそれは熱心に櫛原の教会に参りましてね、私はこの頃不信心になっとりますけど」と言う事でした。

そして、段々話がですね、「もしこれを返したらどげんしなさるとですか」と言うから、「もし返して下さるならば、金光様に全部お供えしてしまいます」と言うたら、ほんなこと返して下さいました。本当はお供えしたのは一部でしたけどね。(笑声) まあ、こういうおかげ話は挙げれば限りがないほどのおかげを蒙っております。

そのように打てば響くようなおかげを頂いておりますものですから、「だいぶん俺も信心が高まってきた」とまあ、いうならいっぱしの信心をしよるような錯覚を起こしたようです。これは今になって思うとですけれど・・・・・・。

これは私の闇商売時代の体験でございます。


お道は広い

金光様はそういう事の中にも働いて下さったんです。

デパートに行って品物を持って来るのは泥棒ですよ。けれども私どもが本当に神様の御物と分かったら、私は良かろうごとある気がするのです。けどね、本当に分かっとれば、ただ神様の物をあっちさん持って行ったり、こっちさん持って来たりする訳です。

けれども人間の社会に生活させて頂いとるから人間の法も守らなければなりません。教祖もまた、そういう事を教えておられますから。

本当の親神様の世界の場合ならば、そんな事は罪にならん、そんな事は御無礼にならんという気が致します。

それは奥さんを二人持ったけん、三人持ったけんというても、罰かぶらせなさる神様では決してないですよ。というて、私がそれを宣伝する訳でもないですけどね。ただしね、人間の社会では許されんということです。

ですから、家内に分からんごとするなら良かと思うですね(笑声)。分かるけんいかんとです。そこんところのお繰り合わせを願ってですね。私どもの信者にはそげなとは幾らでも居りますよ、おかげ頂いて。ほんと、三角関係でですね。だから私は家内に分からんごと、その代わりに例えて言うならば、今日は神様に許されとるという実感がある時には左の方さへ行け、今日はいかんという時には右の方さへ行けという風に、私は伝授しとる訳ですね。(笑声) それはそうですよ。今日は彼女のところに行こうと思いよる。ところが反対側のバスが来たという時にはね、決して行きなさんな。いかん。けども行ったら丁度迎えに来たごとバスがね、これは許されとると思って安心して行きなさいと。(笑声) そういうお取次させて頂いておるとね、何時の間にかその三角関係がなくなって来るのです。これは私の方で何人も体験があるです。そういう事は道に外れるなんて、私どものように訳の分からんとが難しい事ども言いよると返っておかげ落とすです。というような感じが致しますね。お取次させて頂きよると。

そしてやはり結局はね、本当に夫婦仲良うということになってまいります。

これはそういう男と女の関係の事だけではない、全ての点が、金光教のお取次の働きというものは、実に底がない程大きいと思いますね。

あの湯川先生の話の中にあるでしょう。泥棒がお願いに来た。それなんです。

どうして泥棒が金光様の信心が出来るだろうかというのでなくてですね、それがせにゃおられんものならばさせて頂いて、そしてその後に道をつけてやる働きがね、いるのじゃないかと思うです。


背水の陣

まあ、話が横道にそれてしまいましたが、ここんところに、どうしてそういうおかげを頂いたかと思いますのに、結局「背水の陣」です。

私が福岡に出てまいりました時にね、それは丁度布教に出られる先生方と同じ事、これを食べてしもうたら後はどうなるかという心配ではない。もうこれで帰るといったって旅費はない。金はない。食べ物はない。そういう緊迫したというかね、いわゆる「背水の陣」がそういうおかげを呼んだんだと思う。もちろん親先生の「こんな状態で福岡に行っとるから」という祈りがあっておる事はもちろんです。

けど、どんなに親先生が一生懸命願って下さったところでです、受ける方の側がね、そのところで二の足を踏んだり、ふらふらしておってはおかげは受けられんと思う。所謂「背水の陣」なんです。

もうこれから後ろには下がられんという信心なのです。いわゆる不退転なのです。

私はそういう商売の中にそういうものを感じ取らせて頂いて、そして一年余りの間はもう本当に、あちらこちらにおかげ話をしてまいりますと、皆さんが喜んで下さった時代がありました。

それはそうですよね、「置いた物を取るようなおかげ」と先程表現しましたが、まさにその通りのおかげを頂き続けとります時分ですから、「こんなおかげを頂いた」「あんなおかげを頂いた」という生々しいおかげ話ですからね。

「安心と慢心は紙一重」と言われますが、その時分の信心は慢心に近かったように思います。

ですけれども、私は今でも申しておるんですが「一回は慢心の出る程しのおかげを受けてみよ」と。



逆 風

雨漏りのする部屋

福岡にまいりまして一年半というものは、それこそ順風満帆というか慢心が出る程しのおかげを頂きました。ところが、それから一年半というものは、反対に私の上にばかり難儀な事が続いてまいりました。

春吉の教会は、毎月五日が信心共励会のようなことがあっておりましたから、その時には必ず行ってから私の話を聞いて頂いておりました。

そういう春吉の教会に参りました或る日でした。丁度あそこで先生の御話を頂いておりましたら、駆け込むようにして入って来られた婦人がありました。石橋さんという方でした。御主人は西鉄に勤められて、相当良い給料取っておられる。奥さんが非常に、いわゆる遣り手であります。そしていろんな事をして全部損してしまわれてね。

家を今日立ち退かねばならない。今晩から泊まるところがないという御届けでした。岡部先生はそのことを御取次なさっておられました。私はそれを後ろから聞きよりました。私の居りましたのは丁度今の長浜町一丁目。今は何と言いますかね、図書館のあるところの前に今の市民会館の前辺りに、もうそれこそ家とは名ばかりの小屋のような家ではございましたけれども、えらい頑丈な家でした。畳の数でいうならば、十畳の部屋と四畳半ぐらい敷かれる部屋と二つありました。

話はちょっと後先になりますけれども、この時分は商売の方も行き詰まり、商売ももう止めとりました。

その石橋さんの話を聞きまして気の毒になりましてね、「とにかく、しばらく私の家を足場にして仕事を探しなさい」と申しましたら、「今晩一晩で良いけんで・・・・」と言うてちょっとした家財と、そして親子六人でしたでしょうか来られましてね、そしてそのまゝそこに居つかれました。とにかく、そういう時に人の難儀が見ておられない感じですよね。

それで、私どもはその四畳半の方へ移らしてもろうて、いや、畳もござも敷いてなか、上はスレート瓦がしてある。広い方は焼けトタンで何枚も厚く葺いてありますから、これはどげな大風が吹いてもびくともしませんでした。それから、どげん雨降りが続いたっちゃ雨漏れがしないという家でした。

ところが、こちらの四畳半のスレート瓦の方はですね、ちっとばかり降りましてもダダ漏りする部屋でした。その石橋さんの御主人が「私が漏らんごとして上げます」と上にあがんなさったものですから、余計割れてから漏るようになりました。

四畳半の隅の方にこの位(三尺)ばっかりの八足を置いて、そこに神様がお祭りしてある。そこで私どもの本当の意味での修行時代が始まりました。


親に不孝して神に孝行....

私の信心が段々、親に孝行したいばっかりの思いから、その親のもういっちょ上に親がある事に気付かせてもらうようになり、親先生を中心として、親先生の仰る事はそのまま金光大神の御言葉として頂かせて頂くと云ったような信心が育って来たように思います。

これは初代の式年祭で、十五年祭だったでしょうか、御奥城のお掃除に参りました。今は境内に奥城が出来とりますけど、その当時は裏の方にこんもりした墓所がありましたが、その一角を教会の奥城に定められとりました。周囲は竹薮なのです。それでお掃除をし終わってしまいましてから、砂を敷かねばならんというので、二、三人の方と一緒に、石炭箱を自転車の後ろにつけて川に砂を取りに行ってから、もうこれで終わりという時でした。私が早道をしてですね、その奥城から下の田圃にぽんと飛び降りたところに竹の切り株があった。それで足をざっくり、もう石榴のようになりました。

その時分にね、私は一生懸命にね稽古させて頂いとった事は、本当に神様のおかげというものがです、この生命を作って下さったと。言うならばその作り主にお願いをして、おかげにならん事はないというお話も頂いておるから、本当だろうかという訳です。

私どもの祖母達は転んで擦りむいて怪我しますとね、お土を「金光様」と祈って、それでおかげを頂きました。

だから、そういう稽古を一生懸命さして頂いた。もうそれはわくわくするごとどんこん歩かれんごとありました。夕方になって終わりましたから、教会にまいりましたら、親先生が「お風呂に入れ」とこう云われる。今日はとてもお風呂に入られる段じゃない、こげな風だからと思いましたけれども、親先生のお言葉だからと思うてお風呂に入りました。それからは中に入っとる土も出しません。

もう本当にまたたく間におかげを頂くかのように見えました。がです、つう(かさぶた)が出来てかゆうなった頃から、今度は油断が出来たんですね、それが化膿し出しまして、一ヶ月位かかりました。だからここんところを大事にせなければいけないと思います。


天地が自由になる

例えて申しますならね、これから善導寺まで歩かせて頂くと、それから神様に天気の事をお願いさせて頂きまして、ちっとは曇っとるけどお願いして行こうと言うて、お願いしてお参りをする。ところが、三分の一も行かんところで雨が降りだした。そういう時に、ああやはり聞いては下さらなかった、ではいけません。そこまで濡れなかった事を御礼申し上げて、それから先はまだ信心が足りなかった、という生き方なんです。

次は、半分位、おかげで濡れなかった。おかげで、ほんのそこに教会が見えておるのに土砂降りにあってやはり濡れた。けれどもここまではおかげを頂いたと御礼を申しあげる。そういう稽古。そしたら段々、あちらへ着かせて頂いたら土砂降りになったというようなおかげが受けられる。

私はここんところをね、大事にしなければいけないと思います。

『天地が自由になる』程しのおかげと仰るのですから、そういう自由になる程しのおかげを頂かねばなりません。私の方は、以前は四月と十月の十六日が御大祭でしたからね、四月・十月の十六日というのは、二十年間お湿りがなかったのです。ところがいろんな事で、親先生が「二十日にするように」と言われたから二十日にしました。今までおかげを頂いておる十六日が皆空いておる訳なんです。けれども親先生が「二十日に」と言われたので二十日にしましたらどうでしょう、日を変えましたその年の十六日はもう土砂降りでした。

それは、私がそういう稽古を一生懸命さして頂いたからです。お天気の事なんかお願いしても、神様は聞いて下さらんごとありますけれども、そこのところを稽古させて頂くのです。例えば、お願いして出た。けれどもすぐ濡れた。こんな時、これは自分の信心が足らんから、と自分を見極めて行く信心に、天地が自由になる程しのおかげが頂けるのです。



神の声を聞く

弟の戦死

それから話が前後致しますが、私が引揚げてまいりましてから一ヶ月目でしたかね、弟の戦死の公報がありましたのは。七年間もう今日帰るだろうか、明日帰るだろうかと言うて、家族中の者が待っておりましたのが、戦死の公報でした。

それから半年の間に私の留守を守ってくれておった妹婿が亡くなりました。

引揚げて私の相談相手と思うておった家内の兄が亡くなりました。丁度七ヶ月の間に兄弟三人の葬式を致しました。それはもう目も当てられん状態でした。けれども本当に母なんかはね、あの御社にしがみついて「本当に無事の凱旋とか、無事の帰りこそ願っとるけれども、戦死させてくれとは願わなかった」という意味の事を言うてから、御社に武者ぶりついた。戦死が終戦の十五日前でしたからね。それから私の信心というものは少し、いよいよ本調子を増してきたように思います。

丁度そういう前後にお参りさせてもらいましたら、親先生が「明日から御本部参拝をする。あんた、御参りせんか」と言われました。その当時、久留米地区では御本部へ月参りがあっとりました。それから「ハイ」という訳です。親先生が仰る訳ですから、旅費がある訳じゃないけれども「ハイ」と言った以上お参りさせて頂いて、お繰り合わせを頂いた。それから私は御本部参拝の月参りをさせて頂くようになりました。

そんな時の私の心の中にですね、さっきの山に籠った話ではないけれども、本当にね、これだけ家族を挙げてお願いして弟の無事を願っとったのに、どうしてこのような事になったのであろうかと思わして頂いて、神様からね『これはこういう都合であったぞ』『こういう神の願いがあったのぞ』と一言でも分からしてもらったら私の胸が治まると思うた。それから御本部参拝をさしてもらいました。

久留米駅にまいりますと、向こうからこんな大きなリュックを背負うた、敗戦日本に引揚げてくる兵隊さん方が降りて見えられました。不思議でした。あの中に弟が居りはせんじゃろうかと一生懸命探しました。もう戦死という事は分かっているのに、各駅でそういう状態でした。御本部に着くまでそうでした。本当に、神様からね「こうであった」と夢でもよいお知らせ頂きたいという気持ちでした。でないと、この胸が治まらん。不徳の私が神様からお知らせを頂く由もなし、遂に何にも頂かずに控えに帰ってまいりました。


神のミヤゲ

久留米の控所から降りてまいりますと、あそこに石屋さんがあります。私は親先生の鞄を下げて親先生のお供させて頂いとる。そこで、親先生が「大坪さん、今度何か土産があったか」と言われますから、「ハイ、出来ました」と言うた瞬間でした。体全身がしびれる思いが致しました。そしてこれが有難うして有難うして。あの有難いというのに訳はないのですよね。金光駅にまいりました。丁度京都行きの普通列車から、成程沢山の引揚げの兵隊さん達が降りてまいりました。けれどね、行きがけにはね、もしやあの中に弟が混じっていないだろうかと思っていましたがね。もうその一人一人の兵隊さんにね、母国はこういう結果になっておって本当に済みません、済みませんと言って、御礼やら御詫びをしたい気持ちが湧いた。けれども、あの中に弟が混じってはいないだろうかという気持ちは更になかった。

それこそ満員の汽車に乗せて頂いた。幸いそこに席はあった。とても勿体のうして掛けてはおられん。田圃を見ると丁度稲が開花している時期でした。もう車窓から見る稲田を見ても感激する。席を譲っても感激する。もう有難うして、有難うして・・・・。これは訳が分からなかった。神様は私に何のお知らせも下さらなかったけれども、はあ、こういうものが御徳というものじゃなかろうかと、私はその時思いましたね。親先生が「大坪さん、お土産が出来たか」とおっしゃった時、「はい、出来ました」と申し上げたが、実際はお土産一つ買っとる訳はないですけれども、神様はその時にね、お土産を下さった。その頃からの信心は、又ちょっと変わって参りました。

もう弟のことなんか思いません。まあ、そういう信心を頂きました。


がむしゃら

御本部に月参りのおかげを頂きましたが、本当に緊迫した状態の中で御本部参拝をすると、最後の頃なんか本当にもう大変な事でした。けれどもこれはもう絶対のものでした。ですからこれは、もう歩いてでも参ろうという勢いでしたから、もう何とはなしにおかげを頂きました。それからそういう難しい事のあった時分に、御大祭という時には、御大祭の前後にはおかげ頂きました。私がそういうおかげを頂かして頂いて、いろんなお話がございます。

丁度団体参拝で、皆教会に集まって善導寺駅から乗るという訳です。

それで、私もあの時分には軍服でしたからね、軍服着て雑嚢を担うて用意して、玄関のところで座って皆さんの受付をやっている訳です。そこで、ある心安い信者さんが「大坪さん、あんたは御本部参拝の費用がなかと言いよったが出来たの。おかげ頂いたばいなあ」と言われました。

私がもうちゃんと来とるもんじゃけん。「いいえ、そればってん駅まで随いて行くよ」と話していると、後ろから聞いておった人がですね「これは、久富しげるさんという人が御参りする筈じゃったのが、御参りが出来なくなった。それで私の代わりに参ってくれんか」と言うて、旅費を下さるということもございました。

ある時は、旅費が片道分しかない時に、片道分で参りました。

その時に、今の信徒会長や二、三人の人に「今度片道分で来とるばってん、あんたどんが巾着を調べて見んな」ちゅうて、三人の巾着を調べてもらいましたらね、丁度お金が片道分入っとった。私は「おかげ頂いたのう」と言いました。そういう事もございました。

お繰り合わせ頂いたら行くなんて言わずに、先から申しますように背水の陣です。

絶対のもの、そこんところに私の力は、がむしゃらではあるけれども、神様を信ずる力はいよいよ強うなってまいりました。


四神様との出会い

それは丁度久留米の初代の「お立日」でした。その当時、千本杉に奥城がございました。

私は初めてそこに、親先生のお供をして御参拝のおかげを頂きました。そしてそこで「今日の夕方の汽車で発ちましょう」という、先生方の話し合いがあっておった。その時に親先生は何かの都合で御参りが出来ませんでした。そこで、私は私だけでもおかげ頂かにゃいかんと思うて、それから福岡へ跳んで帰りました。

家の表に自転車が一台、綿を乗せてから停っとります。どなたかな、と思って家に入りましたら、昔取引のある方でして、「あなたが繊維物を扱いよったから、何か布団の側になるようなものがありはせんだろうかと、尋ねて来た」との事でした。だから、それこそ売れ残りのこっぱげんごとある反物が一反ございましたから「これなら良いか」と言うと、「これで良いどころではない。幾らじゃろうか。」丁度旅費と御初穂だけ貰や良か、と思うてから「旅費と御初穂分だけで良か」と言うたら、「そげん安うで良かろうか」と。もう参りたい一心で時間も切迫しておりますから、神様はそういうおかげを下さったんですね。それで急いで駅にまいりましたら、久留米から来られた先生方と一緒に合流して、御本部参拝をさして頂いた。

このような訳で御参りしておりますから、いつもは家族全員の御初穂さしてもらいます。ところが私の御初穂分だけしかない訳です。そして、その当時の準急行券というのが百円でした。その百円が取ってあるだけでした。

本当に今度は御参りだけで相済まぬことだったなあと思うて、そして先生方と最後に帰らして頂く汽車の時間を調べて、最後の参拝をお広前に出らせて頂いた。そうしたらね、今から考えるとあれが胸知らせであろうかと。すぐ行動せねばおられないような強い思いですね。

「いつも親が大事、親が大事と言うたのに、親の御初穂も奉れんじゃったじゃないか」と言うことでした。

その時に、私はお金はないけれども、準急行券の百円だけは取ってあった。その時分の私は途中弁当頂こうとか、食事頂こうとか思いませんでした。

もう私は御本部参拝さして頂く時には、座席に寄り掛かって行く事もしませんでした。そのような時代です。ああそうだ、ここに百円あった。これで両親二人の名前で御供えさせてもらおうと思いましたから、私は急に変更しまして帰ろうとすると、丁度宮ノ陣の親先生、旗崎の親先生、それから鳥栖の昔の坂井先生、そしてまだ他に何人か居られましたが、この三人の方ははっきりおぼえておる。だから私がそういう逼迫していることを知っておりますから、「大坪さん、とうかなるが。一緒に乗ろう」と言うて下さるけど、「いや、私は一つ遅れて普通で帰りますから」と言うて駅まで、お送りした。

そして帰って金光様へ百円の御初穂さしてもろうて、両親の名前を書いてお供えさしてもろうた。

私は初めてその時に『お書き下げ』というものを頂いた。御神米が四体下がった。とにかく、もう有難うて、有難うて、お書き下げなんて、本当にですね、それからずっと御参りする度に頂くようになりましたが、それ以後の分はあの二十八年の大洪水の時流れましたけど、これだけは箱の上にぴたっとくっ付いて、一番初めのこれだけは未だ真っ赤になって残っております。

もうそれが有難うして、有難うしてたまりません。本当におかげ頂いて良かった。これで皆さんや先生方と一緒に帰っておったらこれが頂かれなかったと、改めて神様に御礼申さしてもろうて奥城に出ました。

教祖様の奥城に出まして、それこそ涙ながらに御礼申さしてもらいました。そして四神様の奥城に出た瞬間でした。私の下げた頭がね、前の石にがつんと当たるように何かこう引かれた感じがしました。さあ、その時です。

『四神』

という声を頂きました。

それこそもう晴天の霹靂(へきれき)です。私は思わずあちこち見回しました。あたりには誰も居りません。ああ、今のは神様のお声であろうかと思わせて頂いた。それが私の神の声の聞き始めでありました。

さあそれからは、もう本当に目も当てられん程でございました。



神のさしずを受く

修行過酷になる

神様がいちいちお指図下さるのです。ある時には四神様、ある時には教祖様、ある時には桂先生、ある時には石橋先生、ある時には福岡の吉木先生。それはね、本当にそれこそ目も当てられん程に厳しいものでした。

道を歩くでも『さあ、右ぞ、左ぞ』という事でした。その頃から私の信心はまた変わってまいりました。

今までは親先生、親先生。親先生の仰る事は神様の御言葉として、まあいうなら模範になるような信心をさしてもらいましたが、今度は親先生の言う事を聞かんようになりました。

神様と親先生の中に挟まって、もうそれは本当に難儀致しました。当時頂いた御教えの中に『四神が三本鍬なら、教祖は平鍬』と仰る。もうそれこそ、三本鍬で打ち起こされる時、四神様の教えを受ける時にはもう大変な修行でした。

けれども教祖様の平鍬できれいになり合わせて起こしてもらう時に、そこに私の信心の喜びというものの種子が播かれた。そこに天地の親神様の御陽光を頂き、お湿りを頂いて、これで育つんだというような御理解を頂いた。

四神様のお知らせが当時の本に沢山残っております。もうそれこそ、福岡の教会に御参りさせて頂いておりましたが、『さあ、奥城に行け』、『東公園に行け』もうへとへとです。その頃、私はずうっと一食修行を続けとりました。お粥さん一椀です。本当に皆さん、腹いっぱい頂けるという事はね、もうその一椀のお食事を頂く時ね、もう明日のこの時間が楽しい位です。

それでここでは、二食主義を皆が致します。そして一回だけはお粥食を頂きます。もうそれこそ、今では恵まれ過ぎてね、沢山なお米も沢山なお酒もそれこそ山積みするほど頂いておりますけれども、矢張り私どもは合楽のある限りこの修行は続けられることだろうとこう思います。

本当に頂けるという事は姿勢を正して頂かねばなりませんですね。


『下駄を拾え』

ある夏の盛りの頃でした。

例えば、靴も破れて履けんようになって下駄ばきでした。福岡の教会に御参りをする行き帰りに、神様は『下駄を拾え』と教えて下さった。それで縄に括って下駄を拾ってまいりました。もう不思議です。こちらへ一方、こちらへ片一方、丁度一緒になるのがあります。その時私の長女が大名校の一年生でしたが、傘がございませんので雨が降る日は登校が出来ませんでした。

学校から帰ってまいりますと、長女は薪を拾いに若先生と二人で蘢を下げて行きました。

長浜町にはいろんな箱やら、板やら、船から上がる時にどんどん捨ててあったのが、それはもう沢山ありました。

私どもは何年間かは薪一本買いませんでした。石炭一つ買いませんでした。木炭一切れも買いませんでした。それは子供達がみんな拾うて来たものです。私は下駄を拾うてまいりました。

そういう時分でした。『御地内をみだりに汚すなよ』という御教えがありますが、それを本気で行じさせて頂く気になりましたら、もう不思議でたまらなかった事は、大便がし散らかしてありますとね、もう必ずほうきの崩れたのや、新聞紙かボール紙が必ず落ちておりました。これはもう絶対でした。御地内をみだりに汚さないだけでなく、清めさして頂く心掛けもまた必要なのです。そういう時代もございました。


『芝居じゃいけん』

それで、神様からいろいろ御指図を頂いたある時などは、もうとにかく、今日はいよいよ食べる物がない。だから何とかさせてもらわなければね。それでも神様は『商売に行ってはいかん。集金に行ってはいかん』と仰るものですから、何かあの時分にですね、福岡にですね、今はないでしょうけれども、夜中に輪タクを踏む人がありましたね。あれなら自転車を踏みきるから出来るだろう、しかも夜中の仕事だし、もうやっとのことで『そんなら中州のどことかに、こういう事務所があるから』と云われるから行ってみますと、やはり事務所はあるけど、朝が早かったから閉まっておりました。それから橋の上まで出てまいりましてから、どういうことであろうかと神様に御伺いしたところが、役者がね、鬘を被っておるところを頂いてから『お芝居じゃいけん』と教えられる。

例えば、私の心の中に、これだけお願いさして頂いたら、そこまではさせんと神様が言いなさって、まあ少し都合の良い仕事を与えて下さるであろうという心があった。本気で私が輪タクを引こうという気でなかった事を、まあ指摘されておったという時代もございました。


『神の仰せは嘘でも有難い』

ある時の夏の頃でしたか、『どこどこに○○というタドンを製造するところがある』と言われる通りに行きますと、やはりありました。けれどもガランとしとりますからね、奥の方に入ってまいりましたら、一人の女性の方が居られました。「何じゃろうか」と云われる。「私をタドン造りの何かに雇うてもらえんじゃろうか」と申しましたら、今は人はいらんというようなことでした。

それからね帰り道々、神様は嘘を仰るけどね、その嘘でも頂ける事は何と素晴らしいことだろうかと思うてそれが有難かった。言われた通りに行くと半分はほんなことじゃもんね。教えられた通り行けばそれがある。けれども私の願いは適えられなかった。



神語り


『これからのこと、これまでのこと』

そういう様なある日ですね、神様から『吉木栄蔵の奥城参拝』と頂きまして参らせてもらいました。それはもう、その時分はね、暑いからというて日陰の方ども通りよるとね、『楽をする心は堕落する心ぞ』と頂いておりました。

どうでもそれは暑いけど、そこを通らねばいけなかった。例えば洋服のボタンがはずれておってもですね、御心眼にこげな風に羽織の紐が引っ繰り返っとるところを頂きます。ひょっと見たら自分のボタンが外れておった。これは夏です。

それはもう、夏も冬も一着の服で修行中でしたから。それから、奥城の道と違った道を頂くくものですから、こちらから山の中の薮の中を掻き分け掻き分けしてからようやく、小高い丘というのですか、松の木のあるところへ辿り着いて、奥城が斜め向こうに見えるところの丘に上りました。

そしたら、神様がえらい優しく『まあ、そこに掛けよ。松の木のところに掛けよ』と言うて下さった。

そして『上着を取れ、肌着を取れ』と教えのままに私はシャツ一枚になりました。

今までかつてなかった事です。どういう事であろうかと気持ちが悪かった。そういう後には、必ず次の修行がひどかった。

肌着一枚で涼しい風を受けながら、本当に博多湾が一望に見られる山でですね、涼まして頂いとりましたら、神様がね『これから大坪総一郎のこれからのこと、これまでのことを物語る』と仰る。

私は、今まで私の信者にまだ一度も話したことのないことを思い出し、思い出しお話させて頂いとります。


三代金光様の御霊徳

これは話が後先になるけれども、福岡の吉木辰次郎先生が居られます時、ある時に参ったら「大坪さん、裏に来い」と言われ、裏に入らせて頂いたら「これは誰にでも見せられんもんばってんなあ」と言うてから、ガリ版刷りのものを渡されましたので見ました。ところが、当時壮年教師が御本部で信心実習をなさった時に、三代金光様のおかげを受けられたことをガリ版刷りでその会に出席した者だけに下さったものだから、信心の薄い者が見ると怪我をする。誰にでもは見せられんばってんが、と言うて見せられたのが、三代金光様の御霊徳のことでした。生霊を拝まれる、死霊も拝まれる。そういうことがもう綿密に書いてありました。

「ある時などは御賽銭箱のぐるりを一生懸命回っておられる先生があるが、どこの先生じゃろうかと思って見たら、どこどこ教会の何何という先生でした。こういう先生のところでは御比礼は立ちませんなあ」と書いてありました。「私の御結界の傍に来て、私の羽織を触ったり、御結界のものを触ったりしておるから誰だろうかと思ったら、どこどこ先生の生霊でした。

こういう先生のところではおかげを受けますなあ」と書いてありました。まだ霊徳のことが沢山書いてありましたけど、一例を言うとそういうこと。

三代金光様も御霊徳が、著しかったことが、おありになって、何にも仰らない時代に段々、入っておいでられたのですけども、そういう事実があります。

ですから、そういう事を聞いておりましたから、私も案外安心でありました。


神語り

人からはいろいろ狐付きじゃ何じゃと言われましたけど、もう神様と二人で話し合えるという事が、もうそれは、もう何とも有難い。それこそどんなに辛いところを通らせて頂いても只有難いの一心でございましたが、例えばその時もそのように私にささやきかけて下さった。

私が母の胎内に居る時から話して下さいました。

私の父は大坪徳蔵といいますが、「徳の蔵」と書いてある。その徳の蔵からその総てを一つにして私は生まれたと教わりました。それから火の行を三回もさせたとも仰った。私は火傷を三回しとります。

そして、それこそ良い事悪い事、北京時代でそれこそ業を積んだ時代の事も、忘れとるような事もいろいろ教えて下さって、これからはこれから先の事ですからこれはあんまり申し上げられませんけれども、一部の人に漏らした事がございますがね、その通りになっております。

このお広前が建立されましたが、この形なんかでも言わば二十年前に私がお知らせを頂いとった通りの事でございます。

これは合楽教会の前夜とでもいうか、前奏曲とでもいうかね、けどそういう私の信心の過程とか私の信心の内容を聞いて頂くならば、やっぱりここまでは聞いといて頂かねばならん訳でございます。

まだ厳密に申しますならば、未だ一時間、二時間ではお話は出来ません。


そして、最近私が思わして頂きます事は、教祖の神様の御教えというか、御理解というものはもう教祖の御信心が極めに極められた生粋の御言葉であるという事、そういう御言葉は私どもが極めようとしなければ、また極めて行かなければ、その真味、深みというものが分からないということ。例えて申しますなら『金の杖をつけば曲がる。竹や木は折れる。神を杖につけば楽じゃ』と御理解下さってあります。

果たしてお互いがもう何十年信心してお道の教師になったけれども、果たして楽であろうか。もし楽でないならば、あなたはまだ神の杖をついてはおらないのだ、竹や木をついているのだ、金の杖をついておるのだと先ず分からせて頂いたなら、神を杖についたという事はどういう事かと極めて行かねばならない。

そして、成程神を杖につけば楽である事の実際を把握しなければ、御理解は何にもなりません。その楽じゃというところまで極めなければ。金の杖をつけばと仰るのはお金があればという事ですが、そのお金が当てになるでしょうか。

使えばなくなる、木や竹は折れる。木とは心。どんなに心が強い人でも竹や木は折れる。心だけでは、気だけでは駄目だという事。本当に神を杖につけば楽というところまで行かねばなりません。

本教に於ても、最近何とはなしに実意丁寧の化け物のような感じの人が多くなった感じがします。この頃、とかく頭を低うするとか、「あなた、こなた」とか、優しい言葉を使うとかというような人が、もしおかげを受けていなかったとするならばね、その人の実意丁寧はそれは「化け物」だと言わねばなりません。

『実意丁寧』それが総ての上に出来るならばね、おかげが伴わない筈はないんですよ。これは私の極言ですけれども、私はそう思います。だから、本当に『神を杖につけば楽じゃ』というところまで神様を頂かなければならないということです。

今までは私の過去というか、神様にいろいろお指図を受けるようになったところまで、だいたいのところをお話させて頂きました。

これからは、それが全部教えになってまいります。御理解になってまいります。これからは教えの世界に入ります。例えて言うならば、種を植えた時代のが今までのお話とするならば、これから芽が出、葉が繁り、実が実る時代と言っていいでしょう。ですから、私の信心を理解して下さろうとするなら、やはり今までのところをどうでも知って頂かねばならない訳です。

最近よく聞く事ですが「教祖の生きられ方を云々」と。教祖を真に知るためには、やはり教祖の生誕から立教神伝までを知る事が大切な事ではないかと思う。とかく教祖の立教神伝以降ばっかりを見て「どうしてあのような大徳が頂かれたのであろうか、あのようなおかげにどうしてなるのだろうか」と言う。これは美味そうな実を下から見上げているようなもの、大地の下に種子を植えてある事を知ろうとしない、見ようとしない。また、尚言えることは教祖の生きられ方というよりは、教祖の魂の遍歴を探るべきです。

−第一日目−



「第三章」 終わり


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制作責任: 中原 博信 E-mail: hiro@wagakokoronet.org