序 大 坪 総 一 郎 述
というようなことでまことに、相済まんことでありますが、何を話すというて、別に原稿を作っておるわけでもなければ、そういう姿勢を作っておるわけでもございません。作らないというより私はね、原稿を書いたり、あれを話そう、と思ったり致しますとね、お話が出来ないのですね。ですからここに立たせて頂いて、皆さんにお話を聞いて頂くでもどういうことが飛びだしてまいりますやらね。
ただいま、開会に当りまして、津村会長先生から御取次が願われました。さの中に「北九州教区青年教師会の信心研修会で、講師として、大坪総一郎に致しましたからよろしく御願い申し上げます。」という意味の御取次でした。私はその「大坪総一郎」と聞きます時にね、もうドキッとしました。
事実、こういう会を持たれるのですから、さあ、どういうようなことを聞いて頂こうか、又、どんなお話をさせて頂こうかと、それは思わんわけではありません。けれども、私の頭の中で、ああ話そう、こう話そう、と思っても経験から言って、よい話ができたためしがない。
まあ、今日、私が、こういうおかげを受けておる、というところに話は、たどりつくと思うのです。ですからお話を聞いて頂いて、そのおかげを織りなした、その土台とでも申しましょうか、その基礎作りの時代のお話も段々、思い出し、思い出し、聞いて頂きたいと思います。
「困ったなア」「これは、どうするか」と言うような場合、それは、神様が一段と信心を分らせてくださろうとする働き以外になく、怖いことに直面しても、それは、私に度胸を作って下さろうとする御神慮以外にないと…。
ここ、二十年余りの信心で体験させて頂いた。まあ、言うならば、私の前に怖いものはない。私の前に、困ったということがない、というところまで今日おかげを頂いています。
厳密にいうたらありますけどね。大体にいうてそうなんです。
どういう突発的なことが起ってまいりましても、そういう受けとめ方ができること、これが、私の現在おかげを頂いているギリギリのおかげだと思わせて頂いとります。そしてなお、これからもそういう信心が、限りなく続けられ、限りなくその思いは、スッキリとした本当のものになってくるに違いありません。
御神縁とは、不思議なものでございます。私の生まれましたのは、もとのお広前のございました椛目というところですが、その当時は、筑後鉄道という小さな軽便鉄道が通っておりました。久留米から日田間でしたでしょう。その「椛目」という停車場です。
そこで酒の卸小売や、茶店のようなこともいたしておりました。そこへ毎月きまってお寄りになるお客さんがございましてね。カゴの中にいっぱいお野菜を入れて来られる。ある時私の叔母(田中ヒロ)に当る人が「あなたは、毎月こうしておいでになるが、どこに行きよんなさるとですか?」「久留米に金光様というあらたかな神様ができて、そこは、私の親戚になるので、月次祭に、こうして月に一回、田主丸の田舎の方から久留米へ五里余りの道を歩いて参拝させて頂いておるのでございます。」
はじめて金光様の話を聞かせてもろうた。それから毎月、その方が、一服して行かれるその都度に、金光様のありがたいお話を聞かせてもろうておりました。
私の叔母が「そんなにありがたい神様ならば」というて連れて行ってもらったのが、金光様の信心のはじまりでございます。当時、お教会は、六ツ門でしたかね。現在の櫛原にお移りなさる前のまだ布教所時代でしょうか。
お話を頂いてほとほと感心いたしまして、それを私の祖母や自分の兄弟達に話し、家族の者が、月次祭を楽しみにお参りするようになりました。その時分に、お弟子さんが、北野にお道開きなさいました。それが、三井教会初代、荒巻弓次郎先生でございます。それからいろんな都合がありまして、北野から善導寺にお移りになられました。近くになりましたからいよいよしげしげとお参りさせて頂くようになりました。
私の方は、三人目でとりとめたというので、まあ、大喜び。ところがこの話がどういうふうに間違えたものか「椛目の大坪さんとこは、三つ子ができたげな」という評判がたちました。それを聞きつけた福岡日々新聞(現在の西日本新聞)の記者がやってまいりましてね。「お宅は、このたびはおめでとうございます。三人も一緒にお生れになったそうですね。」
というてやって来た。祖母は、何かにつままれたような気持で「あんた何ですか?」
「まあ、そうおかくしならんでもよいじゃないですか。おめでたいことですから。」
とうとう祖母が腹を立てましてね「あんたが、そげん言いなさるなら、納戸に親子が寝とるけん、気がすむごと見てこんの。」と言ったそうです。
まあ、そういうように生れながら何か問題をはらんでおります。それが長じて今日いつも問題をはらんでいるわけであります。 (笑声)
もう、ハッとして気ずいた時は、すでに火の海であった。
提灯がたおれ、蚊帳にうつり、しかもその提灯が私の顔の上にたおれかかっておった。ですからこの顔のキズは提灯の骨のあとです。次の部屋に寝込んでおった祖母が、ビックリして「総一郎はどうしたか!」と部屋に飛びこんで来た時には、一面火の海であった。ようやく火を消し止めた時には、もう泣きもきらず「アー」も「スー」も言えんように丸こげのような状態の私。
その騒ぎにかけつけて来ました、隣に住んでおりました叔母が、御神前にお供えしてある御神酒を、そのまま自分の口に含んで、身体全身に吹きかけた。
そしたら真黒い煙が私の身体全身からあがった。それと同時に「オギャー」という泣き声をあげたということでございます。それから三ヶ月間、祖母は火傷だらけの私を横に寝ませられんもんですから、フトンに寄りかかって、抱いて育ててくれたということです。
これが六十日目の私の修行でございました。その時には、全身火傷だらけの私を見て助かるという人はなかったようです。その時のキズあとが身体のあちこちに今でもございます。
それでも助けたい一心でございましょうね、病院から教会まで約小一里のところを毎日々々お参りした。母がお参りして帰ってくると叔母が参る。もう家族中が、ずっとお百度をふむようにしてお参りさせて頂きました。皆さんも御取次をなさって御体験がおありでしょうけれども、「こりゃ、むつかしか」という者でも、信者が「どうでも」と願うてくるならやはり、どうでもという御取次をせねばおられん。その為には、私が修行しますからとやはり思わなければおられんですね。おそらく親先生は、そういう御取次、御修行をして頂いたものと思います。そういう或る日のお参りの時に、「大坪さん、あんた逹の一心が届いたばい。総一郎さんが具合が悪くて入院した時に神様からお知らせを頂いとったが、蘇鉄が真黒になって枯れて行くところを頂いとった。これはむつかしいと思って、あんたにいよいよの時の覚悟をうながしておったが、あんた逹の一心が神様を動かしたばい。今、御祈念させて頂きよったら真黒な蘇鉄から青々とした新芽が吹き出よるところば頂いた。これからいよいよ本気でおかげば頂かにゃいかんのう。」といわれるのに力を得て、それから一層、生々とした元気のある信心が出来た。
それを聞いた叔母が、何も食べ物を口にいたしておりませんからやせ細った私に、御神飯を一つおかゆにして食べさせた。医者に絶対食べものは与えてならないといわれておったのに、二日目は二つ、三日目には三つという具合に、それこそうす紙をはぐようなもんじゃない、ゴロゴロおかげを頂いてまいりました。
叔母がその御神飯をもってまいりますとね、私がもう五才になつておりますからね、その叔母を拝みよったということです。そういう中におかげを頂いてまいりました。
大体、私は、生れつき余り強いほうではなかった。人間がチョット馬鹿んごとあるところがある。ですからこれは、いよいよ私の心の中に「私は金光様のおかげを頂かねば、立ち行かんのだ」という思いは、暗にあったように思います。祖母が夜の御祈念をするとき、やはり私も横に行って一緒に御祈念をする。
これが大変なことですよね。月次祭の時なんか「子供を連れて来ると騒がしゅうて他人に迷惑をかけるから」といいますけれど「そげなこっちゃなか、どげん騒がしかったっちゃ、悪かことしたっちゃよかけん連れて来なさい」と私は申します。
その信心の雰囲気がね、いつの間にか子供の心の中にしみ通って行くです。そして拝むことを覚えるのです。
訳がわからんなりにそれが信心を育ててくれるんです。今の言葉で申しますと信心の情操教育とでも申しましょうか、子供はそういう雰囲気の中に育てられると思います。祖母の横で御祈念しながら眠ってしまうようなこともありましたけれども、祖母がいつも、声を出して拝む。私共は、兄弟三人おりますがね、その三人の孫の名前を言うて「どうぞ大坪総一郎があなた様のお役に立つ氏子にお取り立て下さい。」と言うことをくり返し願っておるのです。
それを小さいこの耳で聞いておる。ですから「これは、本当に神様の御役に立たなければいけないんだなぁー。祖母に対しても・・・・・・」というような、言葉でいいますとそんなこともないのでしょうけれども、そういうものが暗に心の中にしみこんでいったように思います。
椛目で人が助かるようになりました時代、田主丸の港町というところから、もう九十才にもなろうかという老夫婦がお参りして見えました。
「椛目では、この頃えらい人が助かっとるげなが、どこじゃろうか」
「昔、筑後軌道の停留所の大坪さんたい」
「そんなら人が助かるばい」というて参って来たという老夫婦がありました。そして私の知らない祖父の父の話をこんこんと私にして下さいました。
私の祖父は、池尻作太郎。そのまた父は、池尻作右衛門といった。その作右衛門という人がもう近郷近在で仏様のように言われた人だったということです。そうだろうと思います。お寺さんにも、お坊様格の墓が立っとります。又、その祖父がそれに輪をかけたような人でした。第一、百姓のくせ大根の虫でも殺さなかったというほどです。
私もその血を受けておるのでございましょう、椛目時代に蝿がたくさんおりましたけれども、蝿を殺しよったら「コラ、コラ」と言うて私は怒りよりました。そういう時代がありました。
あれがハイ叩きで「ジャキッ」という音を聞くと何か身のちぢむ思いがするのです。
やはりその祖父の感化を受けておると思います。里歩きに母が連れてまいりますと、一番ぐちに祖父にねだったことは、仏壇の引出しから親鸞上人様の絵解きを引っぱり出してきて読んでもらうことでした。それは一冊の絵本になっていまして、親鸞上人の生い立ちから、亡くなられるまでを書いておられるものでした。
もう子供の時からそれを私は覚えとる。お経も半分ぐらい覚えとったですね。そして、その祖父がいつも私に言っておった「総一ちゃんやい、けっしてケンカどもするな。たとえ一ちょだん叩かれたっちゃ、けっしてケンカどもするな。『南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏』と言いよると痛かとはようなる」と。そういう雰囲気の中に育てられた。
ちょうど、正月の元旦式の時でありました。長い廊下にずーっとならんでおりましたら、向こうから走って来た友達が私の足をイヤというほど踏んだ。私はこれ(手足)はシモヤケのあとです。今でも痛むぐらいのひどいシモヤケでした。そのシモヤケで腫れあがっている足を向こうから走って来た友達がイヤというほど踏んだんですよ。「畜生!」と言うて手を振り上げたのを覚えとります。
それと同時にね「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と言ったのも覚えとります。そしたらね、痛いからではない、もう何かしらわからんけれど涙がポロポロこぼれました。あれはおそらくありがた涙と思います。いやあれは私が「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と言うから、あれは阿弥陀如来様の喜びが返って来たのだと思います。
今で言うなら天地金乃神様のお喜びであったと思います。今ならば「金光様、金光様」と言うところでしょう。それをそのようなふうにね、行じなければおれないほどしに私は弱い子供であったと言うことです。ケンカをせんというのでなく、しきらなかったという感じですね。まあ、これによく似た話があります。
日曜日たんびに参ります。私より七つ上ですから、岸先生がまあ十七、八才だったと思います。親先生が二十三、四才で学院から帰って来られた草々の頃だったでしょう。
その子供会に参りまして、休息の時間だったでしょうか、お参りなさった方は御承知でしょうが、あちらはお玄関のところは段々になっております。その段々のすぐ左手に、今は変わっておりますけれどもお手洗いがございました。そして右の方がミカン畑でございました。
そこで私は何気なしに、その手洗鉢のところに立っていましたら、親先生と岸先生とが、一生懸命信心話をしておられる。
そして岸先生が「若先生、どうでもね、もう何人もとはいりません。一人でもよかけん本当の信者を育てて下さい。」その会話が私の耳に入って来た。
その瞬間、私は何かしらんけどね電気にかゝったような感動と申しましょうかね、「その本当の信者に私がなろう」と思ったんです。思いましたらね、もうそれこそおかしいほど涙が流れました。だから余りおかしいからミカン畑の中に行って泣いたことを覚えとります。
私どもがね、いかに熱烈に信心しても「おかげを頂きたい」ではそんな感動は湧いてきません。けれども「本当の信心が頂きたい。真の信心が頂きたい。」とやむにやまれぬ思いをしたら、それはもう、そのまゝ天地に通う。天地が感動なさる。
その感動が子供の私に湧いてきたんだと、その時のことを思います。
これも母が、ある時、麦生に私を連れて里帰りをした時に、麦生からひと下りしたところに田主丸というところがございますが、そこに常行寺という大きなお寺がございます。祖父がそこの門徒総代をいたしておりました。ある時、そこに偉いお坊様が見えて、昼は説教があり、夜は夜で座談会のようなものがあったんじゃないでしょうか。それに近所の人四、五人と連れのうて参りました。母は私をおんぶしてお参りをした。たしかその日は大変雨風のひどい日だったと思う。それをかすかに覚えておる。お寺が近くなりましたら、いよいよ雨風が強うなったような感じです。ヤブの中のような道を通っておったら、横にずらっと棕櫚木が植わっておった。その棕櫚の葉がね、その雨と風で「カタ、カタ、カタ、カタ」と音をたてているのです。もうそれが、母の背中にある私の心の中にね、もう身がぞくぞくするようなものを感じたのです。何か知らんけれども、まだ子供ですから有難いとも何ともわかりませんけれども、今に残っておる生々しさをいうならやはり感動であったと思います。
雨、風の中で「カタ、カタ、カタ、カタ」音をたてている雨風と棕櫚の葉がおりなすリズムの中に私の子供の耳をくすぐったというのでしょうか。それから五十年ぶりに、今そこに見えとります久富繁雄さんとその常行寺を訪れました。そしたら、その道はアスファルトになっておりました。ヤブのようなものは全然ありませずに棕櫚の木も一本もありませんでね。あれは、私の夢か幻のようなものであったろうかと思うて、中の方へ入ってまいりました。そしたら大きな納骨堂が新しく建っとりましてね、このごろ移植したばっかりというようなそれこそ二間位あるような棕櫚の木がずらっと植えてありました。もうその時は感動しましたね。あの生々しい感動が本当のものだと思ってね。
これは、信仰的感動というか有難さというものは、言葉じゃない、理屈じゃないですよ。子供の時からそういう雰囲気の中に育てられたということは、私にとりまして大変恵まれたことでありました。
いかに家族の中の信心生活が大切かを思わさせられます。口を開けば金光様のこと、御飯を頂く時でも「どげん考えても信心ちゃ素晴らしいばい」
「ほんなことありがたいなあ」
と話合える雰囲気の中に子供が育つ、信者も育って行く。
『大きくなったら、小づかい銭やらタバコ銭やら差上げます。そのため一札くだんのごとし。田中の伯父上様、大坪総一郎』
として拇印をおしております。
それがちょうど伯父の十年祭をつかえますときにね、隣の従姉がおひな様の箱をかたづけよったら、おひな様の箱の中に入っておった。虫が食うてぼろぼろになっておるのをある信者さんが「これはここの宝物ですばい」というて表装してくれました。その箱書きに『報恩の書』と書いてあります。
*
しかし、冬の期間中は、この子の一番苦手とする時期であった。それは「しもやけ」の為に休学しなければならなかったからである。その子のしもやけは特にひどく、耳、手、足がその為に爛れて膿を持つ程であった。
(現在親先生の手の甲に火傷のような傷跡があるのは、その当時の名残りである)それが為に学業は遅れ、成績の方も良い方ではなく総「乙」であった。伯父増太郎はこの成績を見て「お前はこれから総一とは呼ばぬ。総乙と呼ぶ事にする」と言って、この子をからかったという話もある。けれども根が勉強好きな子だけに、四年生の頃より急に成績は向上して、乙組から甲組に上がった。そのようなある冬、一人の友人が知らずに、霜焼けで腫れ上がっている足をいやという程踏みつけたのである。思わずコブシを振り上げそうになったその瞬間、祖父からいつも言って聞かせられていた言葉がこの子の脳裏をかすめた。
「総一ちゃん、どんな腹の立つような事に出会っても、決して腹を立てるんじゃない。そんな時は『南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏』と唱えときゃ腹の立つのも忘れるもんじゃ」この言葉が電気に当てられた如く思い出された。『南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏』何回も何回も繰り返している。その目にどこから湧いて来るのか分からぬ感激とともに涙が止め度なく流れ落ちた。(親先生御理解集より)
尚、この当時の特記すべき事は草野寿本寺の草野月州君との友情であろう。彼の学業は抜群の成績を示し、他の友人の追随を許さなかった。ところが彼は大変な癇の強い人で、機嫌を損ねると何もかも見境なく投げ散らし、家族の者さえ手に負えない位であった。けれども、師が来るとケロリとその癇癪も止まった。だから癇癪が起きるといつも寺男が師を迎えに来るようになった。そんな訳で、月のうち大半はこの寿本寺から通学した。
この寺での生活は後の師の信心の上に大きな感化を受けている。大正十五年、高等小学校へ入学。この頃より進学の意欲は益々強まり、担任の上野鎮康先生もその熱心さと学業成績に目を付けられ、福岡師範受験を奨められた。中庸に「言前に定まる時は、つまずかず。事前に定まる時には苦しまず」と見える。この当時の心意気も将にこの通りではなかったろうか。
商売の手伝いのかたわら書を近ずけ、人が寝しずまって筆を執る。この苦学も進学という覚悟があったからこそ喜々として受けられたのである。ところがその年、父の勤務している筑後軌道会社解散という思いもかけない悲運が待ち受けていたのである。この事により熱願して来た進学の糸はプッツリと断たれてしまった。風に鳴る落ち葉を見るにつけ、露に咽ぶ陰虫の声を聞くにつけ、我が身一人の秋にあらねど・・・・・・。
師の心境いかばかりであったろうか!これを転機に、我この道より行く道なしと決心され、商売道を歩まれる事になられるのである。
*
「第一章」 終わり
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