七月三十一日(栄四郎先生) 御理解第七十七節 「人の悪いことを、……」 自分の部屋の障子の破れから隣の部屋の障子の 破れを覗いているようなことハなかろうか。 人の悪いところが見える時ハ必ず自分の心の破れ からのぞいていることを知らねばならん。 同じ穴をあけるなら、これハ私だけのものと思える 信心を貫き、天地に風穴をあけたい。 そこから際立った天地の息吹が限りなく頂ける。 (大奥様御入院中、七夕の祈りより) 「元気に一枝一枝が育ち、お役に立ちますように」と、 各々の百日心行成就が願われております。 七月三十日 御理解第七十六節 「人間は人を助けることができるのは……」 泳げぬ者がおぼれている人を助けることハできん。 「自分さえよければよい」 人間の本質はエゴであるが、そのエゴの使い道を 知らない人が多い。 合楽理念の根本は親孝行にある。 「人が助かりさえすれば結構である」との親神の願い を願いとしてゆく時、「人が助かるということハ、先ず ハ私が助かるということ」という初代の御教えにいきつく。 吾も他人も共に助かりの輪をひろげたし 常に和賀心にあるを 因みに二十四孝の竹の子掘りではないが、親孝行の 為のエゴハ真剣となるが、自分の為のエゴハ邪剣となる。 おそるべし おそるべし 七月二十九日 御理解第七十五節 「人を殺すというが、心で殺すのが……」 人を助けるのが信者の心得である筈なのに、言葉で人を傷つけ心で人を殺していな いだろうか。 たとえ蛇のように牙をむき、ムカデのようにジガジガする人でも、打ち向かう者に 負けておれれる。 心の豊かさがありがたいと感じる信心を頂きたい。 狛犬の歯ハギラギラと淋しけれ 勝って悲しい花一もんめ 負けて嬉しい徳一もんめ 七月二十八日 御理解第七十四節 「かわいいと思う心が神心じゃ」 「七転八起き」 転ばない人生より、転んでもただでハ起きんという人生がよい。 「怪我の功名」 和賀心の前にハどのような事柄でも必ずおかげの元となる。 「柔(和)能く剛(業)を制す」 どのような業の深い事や理不尽な事を言われても、それを謙虚に和の心で受けてい けば、業(五)のエネルギーをもって、徳(六)となる。 要は、「神の心を心として生きる」ところに、すべてがかわいいものとなってくる。 七月二十七日(栄四郎先生) 御理解第七十三節 「変人になれ。変人にならぬと……」 杵を折られても臼を割られても、それを灰にして枯れ木 に花を咲かせ、殿様から宝まで頂かれた正直じいさん。 世の人ハ、正直者ハ馬鹿をみるなどと言うけれど、その 馬鹿になったむこうのおかげの素晴らしいことを知らない。 「今日の合楽の家、蔵、財産があるとするなら、それハ 神様のどのような無理難題でも、私ははいはいしながら でも、それを馬鹿ほどに素直にうけてきた。その「はい」 の一言で合楽教会は建っておる」と、初代は御理解下さ ってあります。 素直心のひとつにて 雲の上までのぼる道あり 七月二十六日 御理解第七十二節 「人間を軽う見な……」 ○「寛」すべてを神の働きと見れバ、 人を軽うみることハありません。 ○人を大切にする前に、自らの心を大切にするならば、 嫌な人こそお茶のいっぱいも出さねばおれんことになって まいります。 ○「救われる身から救う身になれ」 即ち親心・神心が育ってくれバ、くずの子程可愛いと いうことになってまいります。 ○人に軽う見られてもなりません。 人が助かる為にも、人から重く大切に扱って頂ける私に なれバ神のヒレイです。 信心にハ、段階段階の工夫が大切です。 七月二十五日(栄四郎先生) 御理解第七十一節 「ここへは信心のけいこをしに来るのである……」 信心のけいことハ、心のけいこ。 心を自由自在にありがたい方へありがたい方へ使うていける けいこです。 その為に一番邪魔になるのが「我」です。 「成り行きを頂いて」第一に有り難いことハ 自らを空しゅうしておれることです」と、初代は申されて あります。 「はいの功徳」と頂きました。 人間の肺ハ呼吸することで、天地の新しい酸素(息吹)を 取り入れ、体内の古い二酸化炭素(我)を外に出す働きを するそうです。 成り行きの中に素直に「ハイ」と溶け込むけいこの、何と 素晴らしいことでしょう。 七月二十四日(栄四郎先生) 御理解第七十節 「人間は万物の霊長であるから……」 すべてのおかげを司ってあるのハ神様です。 それを十全に受けとめてゆけるのハ 人間の心次第です。 生きとし生けるものの上に、神様ハ「信心はせんでも おかげはやってある」と申されますが、犬や猫でハ それをおかげとキャッチすることすらできません。 心がなければキャッチできないおかげ、さらにハ御理念 にもとづかねバ受けることの出来ぬおかげを十全に現し ていきたいものです。 どうでも「天地の大恩」を現す使命を、人間として御理念 者として願わねバなりません。 七月二十三日 御理解第六十九節 「信心はみやすいものじゃが……」 安政五年(一八五八年)「文治大明神」 〜 明治元年(一八六八年)「生神金光大神」 「……三年五年の信心ではまだ迷いやすい。 十年の信心が続い たら、われながら喜んでわが心をまつれ」 即ちこの六十九節ハ、教祖御自身が辿られた生神への 実験実証の十年である。 どのような信心をしたら、十年で私たち俗人がわれながら 我が心を拝めるようになるてあろうか。 「6・9」6と9ハ同質同根と、呉服屋の石井さんが頂かれま した。即ち、徳もめぐりも同質同根と悟り、思い通りになる ことも、思い通りにならんことも、すべて氏子を幸せにせず にハおかん神の一念から、起きてくる事柄とその成り行き を尊ぶ信心が十年と続けられるなら、私でも教祖の辿られ た生神への道が辿られることを確信する。 七月二十二日 御理解第六十八節 「神参りをするに、雨が降るから……」 ここに一本の楠の苗がある。 この苗が「楠太り」というような成木になるまでの 過程には、どれほどか雨にうたれ、風に吹きたおされるような事もあるだろう。 しかし、その一雨ごとに一風ごとに大地に根を張り 天に枝葉を繁らせていく。 「金光大神のほんとう真実の道の栄えというものがなければならない」 万歳の声を聞くこそ尊けれ 道の栄えゆく末のしるしに (金光教団独立記念 明治三十三年佐藤宿老師教歌) 大坪の土壌に植えし一本の 苗すくすくと伸びつづけ 五十枝の花実に万萬歳 七月二十一日 御理解第六十七節 「何事もくぎづけではない……」 「色は匂えど 散りぬるを 我が世誰そ 常ならむ 有為の奥山 今日越えて 浅き夢見し 酔ひもせず」 この「いろは歌」は、人の世の無常観を教えられている。 即ち「諸行無常」という宇宙の真理である。 しかし、その真理がわかったからというて、人間が救われる ことも助かることにもならない。いやむしろ「天地無情」ばか りがつのってしまう。 そこで、どうすればその無常を越えられるのか。 それは「成り行き無常」と頂くことである。 「成り行き無常」に徹すれば、「天地有情」という 真実に触れつづけることが出来る。 教祖は「天地有情」を身をもって実証された方である。 「変わったことがあることがおかげ それをおかげにさせて頂くのがお道の信心」 七月二十日 御理解第六十六節 「人間は勝手なものである……」 「人間は勝手なものである」 出すぎりゃ出すぎで不平を云い 出らにゃ出らぬで不足を云う 忙しけりゃ働きながら文句を云い ひまなりゃねながら愚痴こぼす 「人間は悲しいものである」 極楽風呂にひたっている人は 安心 慢心 鼻高々 その鼻ふやけて不安焦燥 地獄釜に入っている人は なげき悲しみ自己嫌悪 この世は苦の世苦の世界とあきらめる 教祖は「安心なるもわが心 難儀になるもわが心」 と教え給う 七月十九日 御理解第六十五節 「日柄方位は見るにおよばぬ……」 「日のお照らしなさる日に良い悪い日はないと思え」とは 天地の間に起きてくる働きに「良い悪い」はないと いうこと。 人間本位の考え方が良し悪しをつくる 良し悪しをみる心が迷いである 日の良し悪しをみる人は 天気からみはなされ 人の良し悪しをみる人は 人気がはなれていく 成り行きの良し悪しを問わずひたすらに 頂き貫けば みな一切おかげ神愛なり 七月十八日 御理解第六十四節 「此方は参ってたずねる……」 「此方は参ってたずねるところがなかった」 おかげで、宗教以前の宗教「金光教」は生まれた。 おかげで絶対の助かりの理念「合楽理念」は生まれた。 この世であの世の真実に目覚めること この世で神の願いを悟ること この世で成り行きの心をキャッチすること 人間がこのこと一つに目覚めれば 尋ねることも求むることもいらない。 今、まさにこの現実が 和賀心時代到来であり、 和賀心世界顕現とはなる。 七月十七日 御理解第六十三節 「一粒万倍といおうが。一人が……」 「秋の田の 刈り穂寂しく悲しきは おのが真の足らぬ恥なり」 ―千田種冶の伝え― この教祖の信心の真実にこそ「一粒万倍」の 「基」があると思う。 千里の道も一歩 千年の計は今月今日 千粒のしいらより一粒の真実 千匹猿の 一匹猿の真実が 世界を変える(教典P536近藤藤守の伝え参照) 千尋の谷落とせし親獅子の 心を尋ね真実一路 七月十六日 御理解第六十二節 「昔から、人もよかれわれもよかれ、……」 花実が残るは、枝のあるおかげ。 枝葉は、幹のあるおかげ。 幹は、根のあるおかげ。 根は、土のあるおかげ。 教祖様の信心によるおかげの頂き方、助かり方の 「根拠性」と「確実性」を観る思いがします。 教祖様の晩年のお言葉に「此方は人が助かりさえすれば、 それでけっこうです」とありますが、その根幹にある信心は 「わが身の上におかげを受ける」ことに尽きるのではないでしょうか。 土の信心は、私が助かるための信心。 天の信心は、人が助かるための信心。 又の御教えに「わが身、わが一家を草紙(練習帳)にして神様の おかげを受けて人を助けよ」とあります。 七月十五日 御理解第六十一節 「神より金光大神に、いつまでも……」 天地の法則に反発しながら生きている。 「神より上になった人間」に今こそ 丁寧に伝えなければならない。 金光大神の教えは実生活の中にどこにでも ころがっている様な問題を 「天地の法則」に基づきながら明らかにされた 教えである。 天地の法則の一つに 「何事もみな天地乃神の差し向け」とある。 七月十四日 御理解第六十節 「おかげは受け徳、受け勝ち」 「自分自身をむしる」これこそ 「徳の亡者」の姿である。 「金の亡者」が金のためなら手段を選ばぬように 徳を頂くためなら「人に笑われても 神様に笑われてはならん」という生き方。 私の見るもの聞くもの すべてが「御徳」の材料と頂ける時 この御理解の真意がわかる。 七月十三日(光昭先生) 御理解第五十九節 「習うたことを忘れて、もどしても、……」 神の喜びとは、「成り行きを尊び受ける生き方を 学びて永遠の生命とする」こと。 金光大神の喜びとは、難儀の正体を明らかにすること。 すなわち、「一切神愛」を確立すること。 氏子の喜びとは、「和賀心」が育つ喜びを実験実証すること。 七月十二日(光昭先生) 御理解第五十八節 「人が盗人じゃと言うても、……」 人から盗人、乞食と心外な事を言われるような事がある。 このような時、心の内を見つめ直す絶好の成り行きを頂いた のである。 その人を使って、私の心の中に、盗人、乞食と、人に対して 言うたり、思うたり、見えたりしてはいないかと教えておら れる。 神様は、私の心の中をよく見ておられる。 七月十一日(光昭先生) 御理解第五十七節 「金の杖をつけば曲がる……」 神を杖につくということは、「一切が神愛」と悟った時である。 金や物や人等々を杖にしておる間は、神愛は見えない。 成り行きの一つ一つの中に込められた神愛を分かる時、神を 杖についた時である。 七月十日(光昭先生) 御理解第五十六節 「日にちさえたてば世間が……」 私が改まる以外にない。 これまでの信心にはなかったこの生き方こそが、 「ひそかにして信心はせよ」の内容である。 そこから寛大な心も育ってくる。 寛 天地の間に起きてくる全ての働き(成り行き)を 神の働きとみる。 いよいよ世間が広うなってくる。 七月九日(光昭先生) 御理解第五十五節 「賃を取ってする仕事は、若い時には……」 自分をむなしくする度に位がついてくる。 位が一段一段と次元を変えていく、生神に向かって。 全ての成り行きが我を取る働きと悟るべし。 我を取れ、取ったその我が役に立つ。 我が取れた時とは、吾と我が心が拝めた時である。 七月八日 御理解第五十四節 「徳のないうちは心配する………」 成り行きは神の働きと分からない内は心配する。 この世には魂を清めに来たのだと分からない内は心配する。 人間は神の氏子と分からない内は心配する。 神の比礼を受ければ心配はない。 七月七日 御理解第五十三節 「信心すれば、目に見えるおかげより………」 どういう信心をすれば、あれもおかげ、これもおかげという 安心と喜びの心が頂けるか。 あの問題もこの問題も、私を育てて下さる働きと頂き抜く事。 何と馬鹿げた解決法だろう。何と非常識な取り組みだろう。 しかし、そこにこそ金光教の助かり方の真骨頂がある事を 確信せよ。 七月六日 御理解第五十二節 「信心する者は驚いてはならぬ………」 あなたと神様との関わりの中に、次々に変わっていく台本。 一寸先が見えない、まさに筋書きのないドラマ。何ともドラマチックです。 どちらの道を選ぶか、チョイスするのはあなたです。 このドラマの主役はあなたなのです。 七月五日 御理解第五十一節 「天地の間に住む人間は神の氏子………」 只今ある御夫婦の結婚記念日のお礼お届けがありました。 今日は改めて、今日あるのは大変な神様のおかばい、おかげの中にあることを 気付かされ、お礼参拝せずにおれず、お参りさせて頂きました。 実意をもって願うとは、お礼そしてお願いの手続きをすること。 手続きとは事を行う手順。 七月四日 御理解第五十節 「とかく信心は地を肥やせ……」 何と道理に合った教えだろう。何と見やすい信心だろう。 何と普遍性に富んだ助かり方だろう。 しかしながら、金光教の百四十年の歴史の中で、それが実証されていない。 教祖が嘘を教えておられるのだろうか。私達がそれを行じてこなかったのか。 今こそ金光教百年の大いなる総括の時ではなかろうか。 七月三日 御理解第四十九節 「信心は相縁機縁」 不思議な御縁を頂いて。 せっかく金光教に縁を頂きながら、和賀心にも成り得ず縁を切っていく人。 せっかく金光教に縁を頂きながら、子孫繁盛家繁盛のおかげも頂かず、縁が 遠のいていく人。惜しい事である、悲しい事である。 七月二日 御理解第四十八節 「わが子の病気でも、かわいい………」 教祖の御教えは、実生活の大変なお御苦労の中に産みなされた。 それを反故にしては相済まぬ。親神の寛大さにいつまでも甘えては、 相済まぬ。いつまでも屑の子では相済まぬ。 「済まぬ済まぬと詫びて今夜もチャンチキおけさ」ではなお相済まぬ。 七月一日 御理解第四十七節 「祈れ薬れにすればおかげも………」 祈れとは信心しておかげを受けてくれよということ。 信心になると言うことは、神意が分かること。 この成り行きに込められた神意が分かれば、こうしてという答えしか 出てきません。 <日本語表紙へ戻る> --------------------------------------------------------------------------