夏期信行 ミニ御理解 (平成10年7月)
七月三十一日 (栄四郎先生)
御理解第十五節
氏子が真から用いるのは神もひれいじゃが、寄進勧化をして氏子を痛めては、神は
喜ばぬぞ。
「自ら努力する者のみよく人の師たり得る」
せねばならんからの、しょうことなしの修行でハ、神にハ響かん。自らせずにおれ
ぬ修行こそ、私の血にも肉にもなり、天地に響く修行ともなる。
佐田恵介先生ある時のお夢に、「むこうから難ギが歩いてきておる。あれに出合う
てハたまらんと、私ハ横道に逃げた。次に、二代親先生が出てこられて、難ギの方
がよけて通るのをつかまえて、いっちょけいこをつけて下さいと言われた」という
ことである。
そのころの二代ハ、初代とお手代わりをされ、本気で力が頂きたい、本気でお徳が
受けたい、と願いつづけておられました。
まさに、氏子が真から用いた神のヒレイが、今日の合楽の御ヒレイでハないでしょ
うか! 合 掌
七月三十日 (栄四郎先生)
御理解第十四節
神は荒れ地荒れ屋敷をお嫌いなさる。
信心の「精進と要心」
美しい花をさかせる精進ハしているが、雑草をぬく要心をおこたる人がいる。おし
いことである。
雑草ハ一生懸命取る要心ハできているが、美しい花を育てる精進をしない人がいる。
おろかなことである。
初代ハ、ある時の御理解に「朝を生命として、ありがたいものを頂く精進を四分。
あとの一日ハ、それを枯(か)らさぬことの為の要心を六分、取りくんでいる」と
言われました。
我情我欲が、ありがたいものを吸いとってしまいます。和賀心を育てる為の、精進
と要心のバランスが大切です。
七月二十九日 (栄四郎先生)
御理解第十三節
神は向こう倍力の徳を授ける。
人がイ(にん)ベンなら私ハ彳(ぎょうにん)ベン
「世界一愛しているのハ家内です。世界一大切なのハ両親です。それでも神様の仰
せにハそむかれません」(初代のおことばより)
このような信心ハ、「神様のおかげを頂かねバ立ちゆかん私だ」ということを悟っ
たところからの、神様第一主義の信心からしか生まれてまいりません。
そこにハ、神様が一生家内を愛させて下さり、一生親を大切にさせて下さる世界が、
開けてまいります。
すでに、彳(ぎょうにん)ベンのおかげの世界、夢にも思わなかったおかげの世界
です。
「雨の降る日ハおじゃるなと言うに
濡れておじゃれば尚可愛い」
七月二十八日 (栄四郎先生)
御理解第十二節
神に会おうと思えば、にわの口を外へ出て見よ。空が神、下が神。
逢いたいと思うても逢うことの出来なかった神様が、今、大坪総一郎親先生の御信
心により、いつでもどこでも、誰でもが合うことの出来る成り行きの神として、世
に出された。
天地開闢(びゃく)以来、願いつづけられたこの前代未聞の神様を、人間の小さな
常識観念の社にとじこめてハあいすみません。
「誰でなし彼にもあらじ成り行きハ
神と私の関りにこそあれ」
七月二十七日 (栄四郎先生)
御理解第十一節
神は天地の守りじゃから、離れることはできぬぞ。
神様が離れられんと言うて下さるのですから、私共も神様を離せない信心を頂いて
こそ、切っても切れぬ神様との間柄が生まれてくるのでハないでしょうか。
すがらずにおれぬ自覚が、観念的なものであってハ、すぐに油断が出ます。
難儀というよろいかぶとを頂いておる時、本気で自らの実体を見極め、われ無力わ
れ屑の子の自覚が、骨身にしみるおかげを頂きたいものであります。
慢心がでる程のおかげもうけてみたい。同時に慢心の出ようのない信心を頂いてこ
そ、限りないおかげの世界も開けてくる。
「わがものと思う心(ところ)にくずれゆく
謙虚なれよと言いきかせおり」と頂きました。
七月二十六日 (栄四郎先生)
御理解第十節
神が社へ入っては、この世が闇になる。
天の岩戸の中に入られた神様を、そこから踊り出させたものは、氏子たちの奏でる
楽しいリズムでありました。
今、闇の世にこの神を踊り出し得るハ、合楽にて天地のリズムを習い、それを体得
した氏子(わたしたち)の他にありません。
今、合楽教会でハ三角運動が願われております。
私の周囲に、私の胸を痛める人々がいるならば、それがすでに御縁です。願わずに
おれん眞が、日と光のリズムの輪を広げてゆくのです。
「吾も他(ひと)も共に助かりの輪をひろげたし
常にわが心にあるを」
七月二十五日 (栄四郎先生)
御理解第九節
天地金乃神は宗旨嫌いをせぬ。信心は心を狭う持ってはならぬ。心を広う持ってお
れ。世界を広う考えておれ。世界はわが心にあるぞ。
はたして「私の世界」ハどの程度のものであろうか。「これが本当」と執着する心
にハ、次の眞実(ほんとう)が受入れられません。
神様ハ、本当からより眞実を、私共に求めてこられます。
初代ハ「これが本当だと思う心が我です」と神様より頂かれました。我がつまって
いてハ、次の眞実も入りようがありません。
井の中の蛙(かわず)になってハ、淋しい世界です。
食べず嫌いをしていてハ、大きくも豊かにもなりようがありません。
七月二十四日 (栄四郎先生)
御理解第八節
子供の中にくずの子があれば、それがかわいいのが親の心じゃ。不信心者ほど神は
かわいい。信心しておかげを受けてくれよ。
屑の子程可愛いと思し召す、神様の御心を心とし、どのような人の上にでも祈らず
におれぬ、大海のような信心を頂きたい。
私のような最低の人間が、救い助けられてきたことの喜びを土台として。
「真実の願いをもつ人ハ
願いそのものの光に照らされて
願いは自然に成就される」
真実の願いとハ、自分本位の願いでなく、神と人とが助かり合う、神様本位の願い
である。
七月二十三日 (栄四郎先生)
御理解第七節
天地金乃神は昔からある神ぞ。途中からできた神でなし。天地ははやることなし。
はやることなければ終わりもなし。天地日月の心になること肝要なり。信心はせん
でもおかげはやってある。
天地と共に極まりなく繁昌してゆける道がある。
初代ハあの四年半を振り返られて「あの時に私ハ『天地日月の心』を頂いておった」
と言われました。
「お金を貸してくれ」という者にハおさい銭箱をひっくりかえして渡し、「くれ」
という者には財布ごと与えられた。
与えてやまぬ、潔い天の心の発露である。
「病人を預かってくれ」と言われれば、伝染病の患者までも受入れられた。
受けて受けぬく地の心の実験である。
昭和二十八年の大洪水の時にハ、その前後にある一分一厘まちがいのない神の働き
(天地のリズム)を感得し、御結界奉仕を貫き通された。
びどうだもくるわぬ日月そのものの御姿であった。
今初代が私共に願われるものハ、天地日月の継承の他なし。
七月二十二日 (幹三郎先生)
御理解第六節
目には見えぬが、神の中を分けて通りおるようなものじゃ。畑で肥をかけておろう
が、道を歩いておろうが、天地金乃神の広前は世界中であるぞ。
世の中に、神の道を説く人はたくさんおります。しかし、観念神(死神)ばかり説
いています。
教祖生神金光大神様は、天地自然の働きの中に生きた神を体感され、生神の道を説
かれました。(「生きた神」の「生」と「神」および「生神」に傍点)
初代大坪総一郎師は、日常茶飯事の中に、生き生きとした神の働きを肌で実感出来
る人間幸福道、即ち、合楽理念を説かれました。
やわ肌の あつき血潮に ふれもみで
淋しからずや 道を説く君
(与謝野晶子)
やわ肌の あつき血潮に 触れながら
よろこび満ちて 道を説く君
七月二十一日 (幹三郎先生)
御理解第五節
これまで、神がものを言うて聞かせることはあるまい。どこへ参っても、片便で願
い捨てであろうが。それでも、一心を立てればわが心に神がござるから、おかげに
なるのじゃ。生きた神を信心せよ。天も地も昔から死んだことなし。此方が祈ると
ころは、天地金乃神と一心なり。
独楽一心
合楽一心
同じ一心でも、前者は「一心を立てればわが心に神がござるからおかげにな
る」一心であって、自己満足的独りよがりの喜びである。
言うなれば、水たまりのようなおかげでしかありません。
後者は「天地金乃神と一心なり」という一心。即ち、神人交流による合楽す
る歓喜(よろこび)である。
言わば「湧き出ずる泉の如し」おかげであります。
七月二十日 (幹三郎先生)
御理解第四節
此方金光大神あって、天地金乃神のおかげを受けられるようになった。此方金光大
神あって、神は世に出たのである。神からも氏子からも両方からの恩人は、此方金
光大神である。金光大神の言うことにそむかぬよう、よく守って信心せよ。まさか
の折には、天地金乃神と言うにおよばぬ。金光大神、助けてくれと言えば、おかげ
を授けてやる。
金光大神は「金神」を「天地金乃神」とまで出世させられたばかりか、自らの「心
の神」までも出世させられた御方である。
そこに「神からも氏子からも恩人である」所以(ゆえん)がある。
初代大坪総一郎師は「難儀」を「神愛」と出世させられた御方である。
四神様の御教えに、
「良い親をもちましても、その親をよう出世させきらぬ鼻たれの子があります。良
い子をもちましても、その子をよう出世させきらぬ鼻たれの親があります」
鼻たれ人間にはなりたくないものです。
七月十九日 (幹三郎先生)
御理解第三節
天地金乃神の申すことは、天地の間に氏子おっておかげを知らず、神仏の宮寺、氏
子の家屋敷、みな神の地所、そのわけ知らず、方角日柄ばかり見て無礼いたし、前
々の巡り合わせで難を受けおる。この度、生神金光大神を差し向け、願う氏子にお
かげを授け、理解申して聞かせ、末々まで繁盛いたすこと、氏子ありての神、神あ
りての氏子、上下立つようにいたす。
「シーへドロ」が「シーベジタブル」に変ったように、「めぐり」が「めぐみ」に
変る。
過去の宗教は、難儀の原因追及ばかりして、無礼いたし、前々のめぐり合わせで難
を受けおる。
「難儀」は恐しいもの、こわいもの、いやなものと観念せず、本気で食べてみる。
確かに「難はめぐみ」と合点がいく。
※ 以前、アメリカでは「海苔」は「シーへドロ(海のヘドロ)」と呼称されたが、
今日では「シーベジタブル(海の野菜)」と評価されている。
七月十八日 (幹三郎先生)
御理解第二節
先の世までも持ってゆかれ、子孫までも残るものは神徳じゃ。神徳は、信心すれば
だれでも受けることができる。みてる(尽きる)ということがない。
教祖は神から「平人なりともひれい」と称えられた。
まさに「平凡にして非凡なる助かり」である。
日々、平凡なる生活の中に、非凡なる神の働きをキャッチして、その成り行きを有
り難く受ける信心をすれば、誰でも神徳を受けることが出来る。成り行きは、みて
るということがない。
まさに「成り行きの中に見える神徳道」である。
神徳 天地に遍満し
神愛 天地に満つる
※「ひれい」とは、魚の鰭(ヒレ)がぴんと立って貫禄がつくように、神
の威徳が輝くことを言う。
七月十七日 (幹三郎先生)
御理解第一節 今、天地の開ける音を聞いて、目を覚ませ。
天地の開ける音というても、人間氏子の打ち向い方次第で、雑音にもなり、妙音に
もなる。
「容赦をすな。鐘は打ちわる心で撞け。太鼓はたたき破る気でたたけ。割れも破れ
もせぬ。ただ、その人の打ちよう、たたきようしだい。天地に鳴り渡りて見せよう」
(教祖の御教え)
教祖は、天地という太鼓に「実意丁寧神信心」というバチをもって打ち向かわれ、
「和賀心」という妙音を鳴り響かせられ、
初代大坪総一郎師は、「成り行きは神の働き」という撞木をもって打ちぬかれ、
「一切神愛」という和音を天地に鳴り響かせられた。
七月十六日 (幹三郎先生)
御神訓 一、真心の道を迷わず失わず末の末まで教え伝えよ。
人間は、生きる支えを失うと迷う。
物や金を支えにしている人
人智人力を支えにしている人
主義思想を支えに生きている人
八百万(やおよろず)の神を支えに信心している人
親先生(取次者)を支えにしている人
その支えを失うと支離滅裂。
迷い道、迷い信心では伝わらない。
「成り行きは 人生のパートナー」とできるとき、絶対にして最高の支えとなり、
真の道を歩くことが出来る。
真の道は、伝えるのでなく 伝わるのである。
広めるのでなく 広まるのである。
七月十五日 (光昭先生)
御神訓 一、神は声もなし 形も見えず 疑わば限りなし 恐るべし 疑いを去れよ。
疑いを去るために、まず肝に命じなけれバならぬことは「神様は私共の思い通りの
おかげを下さることはない」ということです。
目に見えぬ神、聞こえぬ神の声を信じるのではない。
目に見える成り行き(神の意志)を信じさせて頂き、尊ばせてもらえば、必ず、思
い以上のおかげ、夢にも思わぬ無限のおかげが頂ける。
七月十四日 (光昭先生)
御神訓 一、神の教えも真の道も知らぬ人の哀れさ。
私共の周囲を見わたせば、ぐち不平不足をこぼす人、世をうらみ人をねたみくやむ、
哀れな人がいかに多いことか。
今こそ神の教えにふれた者が、真の道(成り行きを尊ぶ生き方)を指し示していか
ねばならない。
「見て見ぬふりをする人の哀れさ」にはなってはならない。
七月十三日 (光昭先生)
御神訓 一、やれ痛やという心で ありがたし 今みかげをという心になれよ。
大願(神願成就)を持つ者には難ギはない。
一切が修行 一切がけいこである。
もし痛い思い苦しい思いをしておるならば、今の願いが小願(私願成就)であると
気付かせてもらい、そこからの発心を願いたいものです。
発心は悲し勇ましホトトギス
七月十二日 (光昭先生)
御神訓 一、悪いことを言うて待つなよ 先を楽しめ。
悪いことを言わんですむ思わんですむ心を作らなければなりません。
九にヽ(てん)を打つと丸になる。
ここ二日前から「五分のお供え」の信心に取り組んでいます。
てんを打つぐらいの精進で九が丸になり、心が楽しくなるのなら、取り組む価値は
あると思います。
信心が積極的になると楽しくなってきます。
七月十一日 (光昭先生)
御神訓 一、用心は 前からたおれぬうちの杖ぞ。
「用心(要心)と精進」
用心をしていてもたおれる事がある。
たおれたらそこからの精進を神様は求められている。
たおれころびの信心しか出来ていなくてもいい。
たおれたところから改まりころんだところからみがいてゆく。
七転八起
七月十日 (光昭先生)
御神訓 一、祈りてみかげのあるもなきも わが心なり。
まずは、「祈られている私」を実感すること。
ためには「考えるより祈れ」の実践。即ち、人智人力を取るけいこがいる。
必ず、我身は神徳(みかげ)の中に、生かされてある実感が頂ける。
祈る姿勢は信心者の基本姿勢です。
七月九日 (光昭先生)
御神訓 一、忌み汚れは わが心で犯すこともあり払うこともあり。
教祖様ハ実意丁寧神信心をもって金神を天地金乃神にまで高め極めていかれました。
初代大坪総一郎親先生は、成り行きを尊ぶ生き方によって「難ギ」を「神愛」と見
極められました。
御二方とも貫かれたのです。
貫いてこそ、和賀心を頂かれたのです。
和賀心の前には、あらゆる罪・因縁も、霜に煮湯を注ぐが如く消えてなくなるので
す。
七月八日 (光昭先生)
御神訓 一、わが身がわが自由にならぬものぞ。
わがものと思いちがいをするところからわが身がわが自由をうしなうのである。
「一切御物」
「一切が神の御働き」
このことが明らかになった時、そこに小自由が許される。
その自由という名のつばさを持った者の使命として大願成就を願わせてもらう時、
大自由が許される。
七月七日
御神訓 一、疑いを去りて信心してみよ みかげはわが心にあり。
ある御婦人が先ほど「巻き寿司の芯が小さくゆるい」ところのお夢を頂きましたと
いうお届けがありました。
寿司はおかげのこと。
助かりの根拠性がありますか?
おかげハ和賀心にあり≠アれほど確かなおかげの根拠性、普遍性はない。
○ 天真家邪理猫道(ジャリケドウ)
○ 地心家真理大道(シンリオオドウ)
(編註……一信徒が頂いた神様からのお知らせ。
天の心の典型である「親切や奉仕」といったものは偽善や欺まん
に陥りやすいことがある、という指摘とともに、地の心を中心に
した生き方なら間違いがないという意味。)
七月六日
御神訓 一、出産の時よかり物によかるより 神に心を任せよかれよ。
出産はまさに人力と神力のあいよかけよの働き合い。
神力の発動のスイッチは真です。
真とは天地の心を心とすること、即ち、天真地心(天の働きは真そのもの、その働
きを十全に受けとめられる心が地の心)。
七月五日
御神訓 一、懐妊の時腹帯をするより 心に真の帯をせよ。
着物を着るにも帯をしなければ歩きにくいように、信心もダラダラと続いているだ
けでは不自由です。
信心の帯とは信心の節度です。
私の生活の中から死田業田(シダゴダ)なものを取りのぞきたいものです。
七月四日
御神訓 一、子を産むは わが力で産むとは思うな みな親神の恵むところぞ。
御祈念前の御届に、神さまの一分一厘まちがいない働きや、面白いようなリズムを
感じて生活させて頂いている方々の御取次が続きました。
「生かされて生きる」この事がどれほど実感できるか。
そこに信心者しか味わえぬ、安心と喜びの生活がある。
○ 成り行きは神さまとのキャッチボール
七月三日
御神訓 一、家柄人筋を改むるより 互いに人情柄を改めよ。
信心する者は人柄が変らねばなりません。
信心になる前の私は、自分の性格が大嫌いでした。しかし今では自分の性格に御礼
がいえるようになりました。
それは私の性質を、神さまが利用して下さっておる確信が持てるようになったから
です。
性質は変らないけれども、信心すれば、性格は育つものです。(「育つ」に傍点)
七月二日
御神訓 一、縁談に相性を改め見合わすより 信の心を見合わせよ。
縁談に限らず、私共の判断や行動基準になっているものは、一に我情、我欲
二に常識、観念 三に智恵、分別。
信心する者は歓点(観点)を変えねばなりません。
○ スミレつむ娘(こ)に野の道問えば
わしの行く手を花でさす。
七月一日
御神訓 一、陰とひなたの心を持つなよ。
「神さまの御照覧の世界に生きる」
これが信心生活者の姿です。
しかし生身の人間としていつも明るく朗らかにとはいきません。
ある時は暗く沈みこむような時があります。
白鍵(陽気)だけでは本当の音楽は楽しめません。黒鍵(陰気)をひきこなせて
十全の楽の世界があるのです。
陽気……万物が動き、または生じようとする気。
陰気……万物生成の根本の一つとされる、消極面をつかさどる気。
(広辞苑第四版)
<日本語表紙へ戻る>
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