平成12年7月6日 朝の御理解(親先生)
御理解第44節
狐狸でさえ、神にまつられることを喜ぶというではないか。人は万物の霊長なれ
ば、死したる後、神にまつられ、神になることを楽しみに信心せよ。
お道の信心による神格開眼です。
金光さまの信心をして居るから神になるのではない。神になる道を行ずるから神に
祀られるのです。
万物の霊長としての霊徳を研き清めてゆくところに霊長としての自覚が生まれます。
少なくとも真の信心の有難さ楽しさが身につき、吾ながらわが心がまつれる信心に
向きが変えられねば、神になる楽しみは生まれません。
芝居講談で見ききする狐狸ですら、どこどこの山に千年の修業をかさねた狐とか神
通力を得た狸とか申しますからね。その為の修行が要るのは当然のことです。
(昭45・7・26)
初代はご晩年に、「人間には誰にでも、生神の性がある。だから、その生神の性
を育てる精進をしなければならない」とおっしゃいました。けれども正直言って、
本気で神になろうというようなことは、思わなかったですね。皆さんの場合、どう
でしょうか。「神になることを楽しみに信心せよ」とおっしゃるんですけれども、
本当に、そういう自覚とか、願いというものが、持てるでしょうかね。
今日私は、「志を高く」ということを頂いたんですけれども、神になるとか、そ
ういうことを別にいたしましてね、お互いの志を高く持って頂きたい、ということ
ですね。
昨日は壮年会がありました。私の部屋に中継しますから、見てくださいというこ
とで、壮年会の模様を、テレビで見せてもらいました。熱心に11時頃までしてお
られました。本当に一次元、お互いの信心を高めなければならないなと、思わせて
頂いたんですがね。少なくとも、信心のない人達と、やはり一次元違った世界に住
まわせて頂かねばならない。そのためには、結局、志を高くするということだと思
うんですね。
たとえば、吉田松陰は、わずか3、4年で20人余の門人を育て、その人達が日
本を変えたんですよ。どこが違うのかというと、志だと思うんですよね。ただ自分
が、楽な生活をしたい、というのとは違います。ですから、そのような、本当に志
を高く持てる人達が、今、大同団結する。そうでなければ本当の事が見えませんよ。
何を為すべきか、というようなことがですね。
今度、椛目・合楽布教50年のことがありますが、私の意識の中には、全くそれ
はありませんでした。不思議な成り行きの中で、皆さんが、このことを進めておら
れるんですけれども、どうでしょうかね。椛目・合楽布教50年のお祭りを10月
16日に迎える、そのための「百日心行」を、というような盛り上がりがあるわけ
ですが、皆さんが何をしたいのか、どうしたいのか、どうなりたいのか、これは皆
さんが決めることじゃありませんか。方向を示すとか、一つここに焦点をおいて取
り組みましょう、といったことではなくてですね。勿論、私は私なりの願いがあり
ますよ。
今月の夏期信行でもそうです。これを身に付けたいんだと。この度の大奥様の成
り行きの中で、この事に取り組ませて頂きたい、というものは、銘々が決めるべき
ことでしょう。また、そうでなければ本当なことになりはしませんよ。いつまで経
っても、やあやあ言われるからしょうことなしに、ではいけません。まあ、そうい
うことはないでしょうけれどもね。
初代の『信楽』の中に、「今までは、銭がほしいとか、ご馳走が食いたいとか、
この世のことに眼が向いておったが、今度は神になりたいという心が起き、今まで
は物に向っていたものが魂に向うように心の方向が一転することが改めることで、
これが信心である」とあります。また玉水の初代は、「信心がだんだん身について
くると、今までしたいと思っていたことがしたくなくなり、したくないと思ってい
たことがしたいと思うようになる」とおっしゃっていますね。お互いどうでしょう
か。こういう意識改革というようなものが、なされていっているでしょうか。
今日は一つ、お互いの志がどのへんにあるのか、考えてみてください。わずか3、
4年で、あれだけ意識改革の出来た松下村塾は、相当填っていたと思います。片手
間のことではなかったと思うんですよね。どうでも「志を高く」して、これからの
信心をさせて頂きたいと思いますね。 どうぞ。
平成12年7月5日 朝の御理解(親先生)
御理解第87節
腹は借り物というが、借り物ではない。万代の宝じゃ。懐妊の時は、神の氏子が
わが胎内におると思うて大切にせよ。
神を神と用いる前に、心を心と用いることです。
万物の霊長たる人間なら誰もが万代の宝(心)を持っているのに、宝のもちぐされ
にしてしまっているようです。使えば進化し、使わねば退化するものです。
折角、打ち出の小槌を持ちながら、その小槌を打ち捨てて両手で重荷を背負う大黒
様。信心のない人の姿ではないでしょうか。 (昭58・7・16)
※若先生は昨日の富久信会の時、大黒様が小槌を脇においたままで袋だけ背負っ
ているところのお知らせを頂かれた。
この御理解も、初代の信心の目でお説き下さいます時に、「腹」というのを心と、
理解なさっておられるわけです。ですから、心というものが万代の宝だ、というこ
となんですね。
「心にとげが刺さる」というようなことを言いますよね。私は、教祖様にとって、
ご長男の正神様の問題というのは、ずうっと、とげが刺さったままのような感じが、
今日はしたんです。そして、この御理解を頂きながら、教祖様の場合、この悩みの
種である正神様の問題を通して、いつも懐妊しておられたのだなあ、と思うのです。
ですから、新たなものが次々と生み成されているのです。
昨日私も、ちょっと心にかかる問題がありました。いわゆる心配の種です。けれ
ども、本当はそこから、いろいろと神様との問答が始まります。成り行きとの問答
が始まるのです。「これはどういうご都合なんだろうか」「どうこれを頂いていけ
ばいいんだろうか」と。そこに、次々と気付かされる。その問題は、おかげ頂いて
なくても、「はあ、こういう事なのか」と気付かされる。「自分には、こういう助
からないものがあるのか」と次々と気付かされる。いわゆる、生み出されてきてい
るわけです。
これは、先日、神様から頂いたことでしたけれども、「金光教は、進化する宗教
だ」と。たとえば教祖様のご神号が、ずうっと変わっていきましたよね。また、ご
神名も、ずっと変わっていきましたよね。これはまさに、進化の印だ、と思うんで
すね。「これが本当」と言うて、そこに釘付けになるのじゃなくて、ほんとうから
よりほんとうへ進化していく。教祖様が、「何事も釘付けではない」とおっしゃる
ように、金光教は、永遠に進化し続ける宗教です。ですから、その進化する条件と
言いましょうか、それは何だと、皆さんは思われるでしょうか。どうでしょうか?
これは、アメリカのフロリダの湿地帯だったと思いますが、何億年も前にいた魚
が、今も生存しているんだそうですね。それがなぜ、進化しなかったかと言うと、
敵対する魚がいなかったんだそうです。生命というのは、海から生まれたんでしょ
う。そして、弱い魚が追い遣られるようにして、だんだん陸に上がります。これは
考えられないことです。水の中でしか生活できないものが、水のない陸に上がるん
ですから。そして、今日の人間になるわけですね。それにはもちろん何億年も掛か
りますが、ずうっと敵対するものがあるから、より進化していくわけです。鳥だっ
てそうなんですってね。敵から逃れたい、飛びたい飛びたい、というので、羽がで
きたんだそうです。
先日、恵城が頂いておりますように、大奥様がお夢の中に出て見えて、「恵城ち
ゃん、あたしは対極」、それ(対極)をツイと読まれたんですが、「対極を大切に
してきたもんね」と言われたというんです。「対極」というのを字引で引きますと、
「反対の極。対立する極」とあるのです。これは、今言うように、「あの人が好か
ん」とか、また「これが悩みの種」といったようなことを大事にしているうちに、
本当に心が練り上げられてくる。あの人、その問題のおかげで、今まで気付かなか
ったものが生み出されてくる。これは、秋田という方がお夢で頂いているんですが、
川の水と海の水がせめぎ合う所に、たくさんの魚が棲む、ということを頂いていま
すよ。
お互いが、いつまで経っても、幼稚な信心から抜け出せない、進化してないとす
るなら、その対極のものをおろそかにしているのです。「徳者と言われる人は、執
念深い」と表現した人がありましたけれども、初代などを見て、それを思いますね。
初代に信心がないなら、初代は、悲観主義者です。問題がある度に、くよくよ悩む
性格です。ところが、それを信心で頂かれますから、その問題の度ごとに生み出さ
れてきたのが、30年間のみ教えです。私達の場合、すぐそれを流産にしているの
です。
教祖様は「生きておる間は修行中じゃ」と仰せられていますが、それが、教祖の
信心が次々と進化していった元だと思います。ですから、金光教はもっともっと進
化していかなければならない、そういう体質を持った宗教だ、ということを私は、
最近思うんです。そのためにも、お互いが、その都度、都度の成り行きの中で、よ
り本当のものを生み出していけるね。ですから、もうあたしは80じゃから、90
じゃからと言っても、生み出せないということはないですよ。「有り難い」という
心が頂ける人は、絶対、永遠に生み出されると思いますね。そういう意味で、ひと
つひとつの成り行きを、いよいよ大切にしていきたいと思います。 どうぞ。
平成12年7月4日 朝の御理解(親先生)
御理解第88節
昔から、親が鏡を持たして嫁入りをさせるのは、顔をきれいにするばかりではな
い。心につらい悲しいと思う時、鏡を立て、悪い顔を人に見せぬようにして家を
治めよということである。
辛い悲しい思いをせねばならぬ時、まずは教えの鏡を立ててみることです。辛い悲
しい思いをせねばならぬ元はこの私にあったとわかります。
それを相手のせいにしたり運命のせいにしたり、その問題から逃げようとしても真
実の助かりにはなりません。又同時に、その難儀をせねばならぬ元が自分にあった
とわかっただけでは、なんにもなりません。
その成行きこそ育てずにはおかんという神様の働きと確信し、黙って治める気にな
れば、広がりに広がる繁昌の道に出ることができるのです。
(昭58・7・17)
教祖様のご信心の内容が余りにも深くて大きく、今まで不明瞭にしか伝わらなか
ったという感じがします。例えば地球は、すごい勢いで回転しているが、余りにも
大きすぎて気づかないようなものです。御理解183カ条も道徳訓程度に思うてい
ました。ところが、覚書、覚帳で教祖様の在り様の一点一画を見ていくと、一つ一
つの教えが、実生活の壮絶な家業の行から生まれてきたということが分かってきま
す。ですから軽く見たのでは、こんな相済まないことはありません。
確かに過大評価もありましたが、そういう意味では過小評価をしていました。例
えば教祖様は、問題の度ごとに改まられ、また、信心の根肥しにしていかれたこと
が伺えます。今日の御理解は、教典の(P633bP8)津川治雄の伝えに関連し
ます。「信心する人は、第一の心得が、腹の立つことがあっても腹を立てないよう
にせよ。腹を立てては家内の不和を起こす。人と仲違いをする。世間を見よ。後に
はわが身を捨てる者がある。これは堪忍が足らないのである。堪忍は、ごく大切な
ものと心得よ」。ほんとに世間並みの道徳訓話みたいですが、内容を見ていくと、
教祖の中で変わっていくわけです。
「あなたは、ものの堪忍をよくされるから、神様も非常におほめになっている。
結構なことであるが、もう一つ進んでおかげを受けるがよい。神様が『申の年(津
川治雄)はよく聞け。堪忍はよくするが、腹の立つのをおさえこんでいる。そのお
さえこむので気分をいためる。それでは、まだいけない。もう一つ進んで、腹の立
つということを知らないというようにせよ。そうすれば、身の薬である』」と仰せ
られた。(同)
例えば、成り行きを尊ぶ、黙って治めるにも、こういう段階がありましょうが。
ぐうぐうやって治める。だからストレスになる。そこを、教祖様は1段階進んで、
どういう受け方をされたか、そのヒントが次にあります。
「このお広前へある山伏が来てかれこれしたことは、よくご承知であるが、これ
を自分が腹を立ててかれこれしてはいけない。これくらいのことは、神様のお力で
お払いのけになることはわけはない。それなのに、そのようにたびたび来るのは、
神様がおやりなさるのであるから、私はいっこうに腹は立てない」(bP9)
「『津川さん、……あなたは、腹が立ってもこらえてこらえて、それを腹の中へ
おさえこんでおられる。それではわが体をこわす。もう一つ進んで、腹の立つこと
を知らないということになるがよい。それには、悪いことがきても、〈これは自分
が犯した罪のめぐりか、先祖が犯した罪のめぐりであろう。これで、一つめぐりを
取り払ってもらうのだ〉と思うがよい。また、それに相違ないのであるから』と言
われた…」(bQ0)
額面通りに受けたら低級な金光教になってしまいます。だから進化して見ること
が必要です。いつも言う、「教祖の信心を見るためには絶対、初代また御理念を下
敷きにしなきゃ見えない」というところなんです。御理解第3節「日柄方位を見る
から、お粗末ご無礼になっておる」でも、日柄方位など見ないアメリカや中国では
通用しない。それを初代は、「人間の思い違い考え違い」と進化させておられる。
ですから、「これで一つめぐりを取り払うてもらうのである」という御理解も、
初代のミニ御理解(P184)「どうしてという心におかげはなし、こうしてとい
う心におかげがある。こうして育てて下さる、こうして研かせて下さる、こうして
改まらせて下さる、こうしてめぐりのお取り払いを下さると頂くところから、有り
難し今みかげをということになる」で、ものすごく浮き彫りになります。
さらに合楽的な頂き方をするなら、「成り行きを鏡にする」ということです。そ
こに「神様のこういうご都合か、ここを改まれと言っておられるんだな」と、自分
の汚れや気づかなかったものを、次々と分からせて下さる。教祖様は、確かにそう
いう頂き方をなさった方、神様のご都合を見極めた方だと思います。それが、「た
びたび来るのは、神様がおやりなさるのであるから」という言葉で分かる。
そういう意味で金光教は進化する宗教、生きている宗教です。間違いなく教祖の
信心は、もっと明瞭になっていく。教祖金光大神は、今までかつてない助かり方を
明らかにして下さった方であり、今までの宗祖、教祖観とは全く違ったお方だとい
うことも分かってくる。
金光教にご縁を頂きながら、和賀心にもなり得ず、子孫繁盛家繁盛の世界にも住
み得ず、縁が切れていく人がどれほど多いことか。それはなぜか。間違いなく教祖
金光大神の道を歩いてないということです。 どうぞ。
平成12年7月3日 朝の御理解(親先生)
御理解第69節
信心はみやすいものじゃが、みな氏子からむつかしゅうする。三年五年の信心で
は、まだ迷いやすい。十年の信心が続いたら、われながら喜んで、わが心をまつ
れ。日は年月のはじめじゃによって、その日その日のおかげを受けてゆけば立ち
行こうが。みやすう信心をするがよいぞ。
好きこそものの上手なれ。
信心が好きにならねばならぬ。
それには信心の好きな人の話を聞く事。
信心の奥処を尋ねる楽しさ、喜ばしさ。
我が心に合掌出来る心には限りがない。
信心の節目節目を大切に。
節から芽が出る枝が出る。 (昭57・7・29)
昨日のミニ御理解は御理解第48節でした。「言うことを聞かぬ時に、ままよと
思うてほっておくような気になって、信心してやれ」と。この御理解は間違いなく、
正神様のおかげで生み成されたみ教えだと思いますね。また、御理解第8節もそう
でしょう。「子供の中にくずの子があれば、それがかわいいのが親の心じゃ。信心
しておかげを受けてくれよ」と。教祖様のみ教えというのは、一カ条、一カ条が信
仰の実体験の中から、実生活の中から、しかも壮絶な戦いの中から生み出されてき
たんだなと思いますね。
今日の御理解にも、「十年の信心が続いたら、われながら喜んで、わが心をまつ
れ」とありますが、これも教祖様ご自身のことですね。教祖様は、安政5年に「文
治大明神」というご神号を頂かれます。そして「生神金光大神」になられるのが明
治元年でしたよね。ちょうど十年掛かっています。そしてその翌年から、金光大神
祭り日というお祭りを始めておられるんです。
昨日から「教祖講座」が明治5年に入りました。正神様のお金の無心が始まりま
すのが、この年からなんですね。私は、何か教祖様の訴え、「私が何のために正神
の問題を、これだけ赤裸々に書き綴ったか、どうぞこの問題を明らかにしてくれよ」
という教祖様の頼みを受けたような感じがしたんですね。ですから、教祖様のみ教
えを反故にしたり、いつまでも、親の臑をかじるような、親の寛大な心に甘えるよ
うな信心では申し訳ない。「済まぬ済まぬと、詫びて今夜もチャンチキオケサ」と
いう唄の文句じゃありませんが、今日も出来ませんでした、今日も失敗しましたで
は相済みません。昨日は特に、どうでも教祖様の助かりの道を、本気で行じさせて
頂き、歩ませて頂かなければならない、と思いました。
「もとをとって道を開く者はあられぬ行もするけれども、後々の者はみやすう」
とおっしゃる、そのみやすい道が、ここに明らかになっているわけです。ところが
どうでしょうか。お互い、「信心はみやすいです」と言えるでしょうか。よく、
「合楽の信心は難しい。困ったらお届けして、先生にお願いすればそれでいい。そ
っちの方がみやすい」と言われます。それはその通りなんですが、この信心がみや
すくなるのとですね、「信心は難しい」というのとの違いはどこにあるかです。
神ながらに、今日の御理解は69節ですよね。これは光昭が以前頂いてます、数
字の6と9ですね。例えば私の方からは6(お徳)でも、皆さんの方から見たら9
(苦)にしか見えない。これと同じ事です。これはおかげ信心からの脱却です。自
分の思い通りになることがおかげ、と思う人にとっては難しいでしょうね。
教祖様は、いつおかげ信心から脱皮しておられると思いますか。安政5年、6年
の教祖様のご信心に、どういう特色があるかというと、いわゆる霊験話です。神様
が臼を回して下さる、天気を教えて下さる、うんかのわいた田んぼに、油を入れる
なと指図して下さる、そういう霊験話ばっかりです。ところが安政5年、6年以降
の文久元年からは、霊験話が出てきません。しかも一番最初になさったことが「東
長屋建替え」で、不吉な2間に4間の家を建てられます。次に起こってくるのが、
「彦助さん事件」とか「山伏事件」ですね。
実に特徴的だなと思いますのが、教典の38ぺージの後ろから2行目、「益坂、
惣左衛門、きょう九つの験、とお知らせ。験の時に死んだと申して、人が来」とい
うくだりです。益坂村の惣左衛門という方が、病気でお願いに見えます。すると、
今日の九つにおかげがあるとおっしゃる。ところが験の時に死んだと言って人が来
る。おかげになると言われたのに、その時刻に亡くなるんですからね。それをわざ
わざここに書かれるという教祖の思い。これは、安政5年、6年のような霊験奇跡
を頂くことや、自分の願い通り、思い通りになることが、信心ではないという確信
がないなら、書けないと思うんですね。ですからここが、おかげ信心から卒業なさ
った印だと思うんです。安政5年、6年と、文久元年のこの違いですね。そしてい
よいよ信心の奥処へと入っていかれるわけです。
教祖様は「おかげ信心」を卒業されて、「我ながら我が心がまつれる」ところま
で信心を進めていかれました。初代は信心の節目節目を大切にして、その節から芽
が出、枝が出ることになりましたよね。教祖様のご信心をたどらせて頂くと、様々
な問題がありますけれども、問題がある度に、信心を一段一段進められたお方です
ね。せっかくこれ程の助かりの道、みやすい道を教祖様が残されたのですから、お
互いが本気でこの道を歩かせて頂きたい。反故にしては申し訳ないと思いますね。
どうぞ。
平成12年7月1日 月例祭御教話(親先生)
私が初代とお手代りさせて頂きました当初に、しきりに頂きましたのが、御理解
24節「人に誘われて、しょうことなしの信心は、つけ焼き刃の信心じゃ。どうぞ、
その身から打ちこんでの真の信心をせよ」という御理解でした。信心に限らず、何
の稽古事でも、その段階というものがあります。ですから、これは皆さんも、自分
の信心がどのレベルか、どこまで分かったか、どこのところまで来てるのか、私の
今の成り行きの頂き方が、どの程度のものかを確認する必要がある。
そういう意味で、今日皆さんに見て頂いた「ヘレン・ケラー」ですね。見えない、
聞こえない、ものが言えない三重苦の世界です。想像してみて下さい。獣のように
何の躾もしません。それこそ本能的に動き回るだけ。その少女に、ある教師が巡り
会う。そこから指導が始まる。手話で、これがマイクだよ、これがりんごだよと、
いろいろ教える。それはもう、すさまじい戦いです。大変な労力が要ったことだろ
うと思うんですね。
ところが、ある程度覚えてくる、先生との交流も起こってくるけれど、その先生
が悩むんですね。「ものを知ることが出来たけれど、その意味を分からせたい。こ
れが1つ分かったら、全ての世界が広がるのに」と。そういう発想が大事だと思う
ですね。どうしてああいう発想ができるのかと思うんですが、たとえば、チンパン
ジーや、どんなに頭のいい猿でも知るということは出来ますけれど、知りたいとい
うことにはならないんだそうです。結局その先生が、ある時、井戸水に触れる。そ
してこれが水だと教える。その時ヘレン・ケラーが、はっとするような顔をする。
「えっ、これが水」「えっ、これが水だ」と、分かることの喜びを知るわけです。
ですからもう気違いのように、じゃあこれは何だと、大地を叩いて、土を掴んで次
々と求めていく。知りたいという欲が生まれてくるわけですね。
たとえば私達の成り行きの尊び方もそうです。ですから自分の信心のレベル、成
り行きを尊ぶという内容がどの辺なのかということですよね。初代も初めからそれ
が神様の働きとか、御神愛の現れとしては受けてはおられません。修行として、ぐ
うぐうと受ける時期があります。そうしていく内に、それに御の字を付けずにおれ
なくなってくる。私でもそうです。初めの頃は、いらいらじがじがの中で、ぐうぐ
うこらえながら、初代が命のように大事にされた成り行きを尊ぶということに縋っ
ただけです。それを続けている内に、「ああ、これか」と何か弾けるように分かっ
た。それが最初から分かるはずはありません。あの血みどろの指導、血みどろの成
り行きとの対決の中に、その内容が変わっていくわけです。
ですから、「成り行きは神様の働きです」と分かるところまでは出て下さいとい
うのが、今の合楽教会にかけられた神様の願いです。余計なことは要りません。せ
っかくお互いが合楽教会にご縁があったのですから、あなたにかけられた神様の願
いは、ただ1点、「成り行きは神の働き」ということの体現伝承者になって頂くこ
と以外にありません。
今NHKで、「生老病死」という人類の有史以来解決のつかない問題を、21世
紀にどう持ち越すかを問う、「21世紀に向けて」という番組があってます。答え
は出ないですね。どうですか、生老病死にどう終止符を打ちますか。合楽なら、そ
れにきっちり終止符が打てるんです。「生きることも、死ぬことも、病気すること
も、老いることも、神様のご都合の中ですから」と言える。ですから、私はそうい
う意味で、信心するということは神様の心を分かるということ。その神様の心が分
かるから、神様のご都合が分かるから、どうしてが出ない。こうしてという答えし
か出ないということになるわけです。
今の大奥様の状態は、どう検査しても全てが順調なのですけれども、あの辛抱強
い大奥様がですね、こうこうするぐらいにきついんだそうです。そういう状態の中
で、神様が何を、このことから分かってくれよと言われているのかということです
ね。秋永先生が昨日の祈願祭の最中に、1枝の見事な松が隆々と栄えていくところ
を頂いたというんです。今合楽に、確かにそういう1枝出る成り行きを頂いていま
す。今度、四国に秦先生一家が布教のおかげを頂くことになりました。これも、見
事な成り行きを頂いてのことでした。
シカゴ布教所の正教先生の長男坊が、昨日私の部屋に来まして、もう誰か分から
んように成長してます。わずか5年でね。もう日本語の方が片言になって、お父さ
んお母さんと話す時は日本語で話すんだそうですが、お姉さんと話す時は英語。大
人は十年いても覚えられない。なぜでしょう。必要を感じないからです。
私が初代とお手代りさせて頂いた時、力を受けたいという思いでいっぱいでした。
ですから、次々と、これは何ですかという問いをしてきたんです。そうしているう
ちに、「はあ、これも神様の成り行きだったんですね」というのが、ようやく見え
るようになりました。まあ完璧というわけじゃございませんけれども、成り行きを
頂かなければおられない。ここまで来たら、後はひとりでに育ちますよ。
宗教と道徳の違いは、「こうしなければならない」というものじゃなくて、「そ
うせずにおれない」というのが、私は宗教だと思うのです。信心とは、神様の思い
が分かったら、そうせずにはおれません。成り行きを頂かずにおれません。
この夏期信行、または10月16日までの取り組みの中で、「ヘレン・ケラー」
を見てない方は一遍見て下さい。あのすさまじい戦いは、一度は要るんじゃないで
しょうか。いつか身に付くじゃろう、いつか分かるじゃろうでは、いつまで経って
も堂々巡りです。しかし幸いなことに、育てずにはおかんという最高の成り行きの
中に、私達があることだけは間違いないようですね。 どうぞ。
平成12年7月1日 朝の御理解(親先生)
御理解第40節
重い物を負うておるか担いでおれば苦しいが、そうでないから信心は楽じゃ。家
業を勤め勤めするがよい。
楽じゃというても、苦労せんでよいというのではない。苦労そのままが修行じゃと
悟ることで、家業全体が修行、それが有難い勿体ないと感じられてくるから、信心
は楽ということになるのです。
今朝より、大橋町の久保山さんがお礼お届をされるのに「毎日、畠の草とりをさせ
て頂きながら、取っても取っても生える雑草と取り組んで、自分の心の中にもこの
ような雑草の様なものがあることに気付き、暑さも感じず終日御用させて頂きまし
た」と。
信心はこれだと思いました。
(昭45・7・22)
金光教の信心の確かさ、教祖様の助かり方の普遍性というようなものを、お互い
が知らなければならない。決して荒唐無稽な助かり方、または特殊な助かり方では
ない。いうなら、根拠性のある助かり方だということです。それこそ棚から牡丹餅
的おかげ、天からお金が降ってくるような、そういう荒唐無稽な助かり方ではない、
確かな助かり方。それは「とかく、信心は地を肥やせ。常平生からの信心が肝要じ
ゃ。地が肥えておれば、肥をせんでもひとりでに物ができるようなものぞ」とおっ
しゃる、そういう根拠性のある助かり方なんですね。じゃあそれがどういうことか
と言うと、「家業の行」、「日に日に生きるが信心なり」と言われる、その「家業
の行」の中で、初代が「家業全体が修行、それが有り難い、勿体ないと感じられて
くる」とおっしゃる、そういう生き方ですね。
たとえば、私はここ1週間具合が悪かったんですが、その時に、大奥様がものす
ごく調子が良かったんですね。食欲がない、咳が出る、痰が出る、大奥様と全く同
じ状態にならせて頂き、また、その報告を聞きながら、本当に神様のご都合の中に、
あれがあり、これがあるんだなあと思わずにおれないんですよ。
あれはもう何年か前に、私が桃をずうっと食べた時、不思議に桃がひっきりなし
にお供えになった。みかんを異常に食べた時は、みかんが、ひっきりなしにお供え
になりました。そして今、マンゴーですね。それが「りんごマンゴー」というんだ
そうですが、そこの三潴にも出来るようになったそうです。それも切れたと思えば、
必ず次のお供えが来るんです。先日、これで終わりましたと、家内が言う。そうし
ましたら、昨日また宮崎から来てるんですね。初代はそれを天地のリズムとおっし
ゃった。それは教祖様だけ、教会だけではないです。それぞれの家業の行の中に、
そういう神様の応援歌を聞くことができる。だから、辛抱できないようなことがあ
るけれども、神様から、「忍べ」というて頂くと、忍ばれるということになるわけ
です。
これは、機会があったら是非見てもらいたいんですが、ヘレン・ケラーの「奇跡
の人」という、耳が聞こえない、目が見えない、ものが言えない、三重苦の実話物
語です。その中で教師が、これがりんごだよ、これが本だよ、これがお母さんだよ
と、いろいろ教えるんです。そして、訓練によってある程度憶えるんですけれども、
その教師は、「違う。この憶えさせ方じゃない。意味が分かって、この物を知って
もらいたい」と。それにはどうしたらいいんだろうかと悩むんですね。それで、あ
る時に、井戸の水を汲む場面があります。井戸の水を手ですくいながら、「これが
水だよ」と教えるんです。ヘレン・ケラーが、「これが水ですか」と。今までも習
ってきてるんです。ところがその水に触れてみて初めて、「この冷たさが、これが
水ですか」と弾けるように分かる場面があるんですね。それから次々に理解してい
くんですね。
お互いの、「これが成り行きだ」というそこがですね、「はあ、これが成り行き
なんですか」という分かり方なんですね。今合楽に、段々そういう人が出てきてる
んですよ。今までは形だけ、成り行きの頂き方がね。ですから、ヘレン・ケラーが
意味が分かって理解したように、「はあ、これが成り行きですか」と分かったら、
「はあ、これも成り行きですね」「これも神様のご都合ですね」というのが実感的
に分かるようになるんです。
ですから、是非、皆さんビデオを見て下さい。私が今言うておるところが一番肝
心なところですから。皆さんの成り行きの理解の仕方というのは、ただ形だけなん
ですよ。成り行きを頂かなければならないから頂くというのではなく、ヘレン・ケ
ラーが意味なく物を理解しておる時と、意味が分かって理解する時の違いですね。
これは何の稽古事でも、一つ弾ける時があります。そこが分かると、教祖様の
「家業の行」のすごさが分かるんです。家業の行の中に起こってくる一つ一つを大
事にする、そのし具合というのが、そこが分からなければ、教祖様のおっしゃる家
業の行の深さは分からないと思うんですね。
今日からいよいよ夏期信行が始まります。この1月間、そういう意味合いで、お
互い填って家業の行に取り組んでみたい。その中で弾けるように、「はあ、これが
家業の行なのか」「これが成り行きを尊ぶことなのか」というような体験を頂いて
もらいたいと思いますね。 どうぞ。
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