金 光 教 合 楽 教 会 の 御 理 解

平成12年1月30日 和賀心デー御理解(親先生)


御理解第40節
 重い物を負うておるか担いでおれば苦しいが、そうでないから信心は楽じゃ。家
  業を勤め勤めするがよい。


徳川家康という人ハ、此の世を重い荷物を背負って山坂を登る様なものと人生をみ
ています。世の殆どの人は、正にその通りだと思っています。
どんな重いものでも、楽しく有難く持って渡れる力を与えられる道を、金光大神ハ
教えています。しかも人間が人間らしく生きる手立てを、家業をつとめつとめ身に
つけてゆけるのです。
その気になれバ誰でもが頂けるのです。
                                 (昭56・7・31)


 「日に日に生きるが信心なり」と言われますが、信心とは、どのように生きるべ
きかを見極めていくことかも知れませんね。「どういう生き方をすれば、神様の心
に添えるのだろうか」、「どういう生き方が、天地の心に通う生き方だろうか」と、
それを求め続けることが、信心だと思うのです。それを、初代は、神様の心を心と
することとおっしゃいました。
 私達が生きる上には、痛い、痒いがあり、思い通りにならないことが、余りにも
多過ぎます。ですから、徳川家康は、こういう表現をしたのでしょうし、お釈迦様
は、「この世は苦の世、苦の世界」と見極められたのです。ところが、教祖金光大
神様は、また大坪総一郎という人は、その煩わしい問題こそ、その重い荷物こそ、
心を磨く絶好の材料だと見極められたのです。電子顕微鏡を使えば、1億分の1セ
ンチの世界が見えるそうですが、わずか1センチのものが、千キロに見えることに
なるそうですから、とてつもない世界が見えるわけですね。教祖様にしても、初代
にしても、そのような世界が見えておられたのだと思います。
 おかげさまで、昨日私は、56歳にならせて頂きました。実は去年ぐらいまでは、
皆さんにああしてお祝いして頂くことが、心苦しくてなりませんでした。人様から
お祝いして頂ける私ではないことを、私が一番よく知っておりますから、誕生日に
は、いつも気が塞いでおりました。ところが、昨日は初めて、有り難く受けさせて
頂くことが出来ました。それは、最低、最悪の性格の私が、ここまで来れたという
ことを、感じることが出来たからです。
 昨日の信徒会長の挨拶は、見事だったと思います。産婦人科の先生がおっしゃる
そうですが、出産して、すぐ赤ん坊を抱かせると、ものすごく親孝行の子供が出来
るそうです。ところが、私の場合は、大奥様が大変難産でしたし、親の命が危ない
というので、死産同様の私は、ぼろぎれに包まれて部屋の隅に置かれていたんです
ね。ですから、親にすぐ抱かれていないわけです。だから私が、親の愛情を知らな
い、冷たい人間になる、破壊主義の相になる、とおっしゃるんです。ぴしゃり合っ
てます。けれども、神様がそういう性格に生まれつかせて下さったんだなあと、昨
日、改めて思いました。そして、初代という方を親に頂かなかったなら、御理念と
いう助かりの道がなかったなら、間違いなく、親を泣かせ、家内、子供を泣かせて、
そして第一に、私は神様を泣かせていたと思います。そんな私でもここまで来れた、
このように変われたという事実です。
 これも、昨日のことでしたが、茨城の北尾さんが、畑ィ先生がお書きになった
『平人なりともひれい』というご本を送って下さいました。明治6年に、「閏六月
十日お知らせ。金光大神は平人なりともひれい、天地金乃神ひれい」という件があ
ります。これは、決して教祖様が謙遜しておっしゃっているのではない、と改めて
思いました。教祖様でも、信心がなければ、不幸な運命の方であったろうと思いま
す。それが、平人という言葉になっているように思うのです。教祖金光大神様は、
平人のような私達が、助かっていけるほどの道を残して下さったんだ、と改めて思
いました。
 また、昨日の私の誕生祝賀会の中で、合楽の子供達が皆舞台に上がりました。6
1人だそうです。私は、あれを見せて頂いて、本当に感動致しました。合楽の財産
だなあ、と思いました。そして、この子供達一人ひとりが持っているものを、育て
られる土壌作りを、本気でさせて頂かなければならない、と思わせて頂いたことで
した。
 今日のミニ御理解にありますように、教祖金光大神様が教えて下さった道は、
「どんな重いものでも、楽しく有難く持って渡れる力を与えられる道」だと思いま
す。人間が生きるということは、様々な煩わしい問題を持ち続けることでもありま
すが、その煩わしい問題がなくなれば、楽になると思うでしょう。これまでの多く
の宗教も、それを取り除こうとしてきたわけです。しかし、そうではなくて、「楽
とは、心が大きくなること」です。私が一回り大きくなればいいとおっしゃるので
す。私達が生きるからには、煩わしい問題がなくなるということは絶対ないのです
から、それを頂く以外にありません。それが分からなければ、私達の本当の助かり
はないと思いますね。
 そして、私のような、最低、最悪の性格の人間でも、ここまで来れたという事実
です。そういう助かりの道を、どうでも実証してみたいと思います。成り行きを尊
んで、心が大きくなって、そこに頂くおかげは、いつの間にか整ってくるおかげで
す。こういう体験をしていかなければ、元気も迫力も出てまいりませんから、一つ
本気で、実験実証して頂きたいと思います。 どうぞ。


平成12年1月23日 和賀心デー御理解(親先生)


御理解第55節
 賃を取ってする仕事は、若い時には頼んでもくれるが、年をとっては頼んでくれ
  ぬ。信心は、年が寄るほど位がつくものじゃ。信心をすれば一年一年ありがとう
  なってくる。


信心ハ我をとる稽古である。我があるとおかげハ受けても有難くもなれない、徳も
受けられぬ。信心しておっても我をとる精進に気を入れない限り、我が有難いもの
を吸いとってしまう。
有難い心が育たぬとするならば、我が邪魔になっておると悟らねばならぬ。
我ほど自分を苦しめるものはない。
                            (昭52・7・7)


 お釈迦様は、「難儀の原因は、物事にとらわれる心、ああありたいとか、こうあ
ってもらいたいという、執着する心である」と言われます。それが我というものな
のでしょうが、この我を取るということは、凡人には容易なことではありません。
しかし、皆さんもだんだん体験しておられると思いますけれども、成り行きを尊ぶ
という生き方をするうちに、初代の御教えである「我情を鎮め、我欲をコントロー
ルする」ということになってくるんですね。
 私は、いつも申しますように、知恵もないくせに、自分の才覚とか、自分の知恵
で、行動するタイプなんですね。ところが、こうして成り行きを頂く稽古をしてい
るうちに、自分の才覚で右左を決めるとか、自分の「これが本当」を押し付けるよ
りは、もう成り行きの中で右左を決めていく方が得だと分からされてきました。
 長女の聡子、長男の恵城までぐらいでしょうか、私が、それこそ叩き回して躾を
しましたのは。ですから、今でも「お父さんは恐い」と言います。美恵たちになる
と、もう私の恐さは知らないんですね。
 あれは、恵城がまだ幼稚園前だったでしょうか。いつもトイレットペーパーを、
便器にいっぱい入れるわけです。もう何遍注意しても聞きません。それで、とうと
う水洗便所が詰まったんですね。もう本当にけたぐりました。ところが、調べてみ
ると、木の根っこが配管を塞いで満杯になっていたんですね。それを見た時、私は
ぞっとしました。たまたま恵城がトイレットペーパーを流した時に、詰まっただけ
だったのです。
 このようなことを体験しながら、神様の御都合の中にあれがあり、これがあるん
だ、というようなことが、だんだん積み重ねられてまいりました。
 先程もある方が、教会に参拝させて頂く時、信号が7つぐらいあるそうですが、
全部赤、赤、赤だったそうです。昔のその人だったら、かりかりきていることでし
ょうけれども、「これはどういうご都合だろうか」と思って、合楽に向かっている
と、大きな事故が2カ所もあったそうです。ですから、「その赤信号もご都合でし
た」と、お礼のお届けをなさいました。それで、「ほう、あんたが、そんなことが
分かるようになったかね」と申したことでした。
 また、ある御婦人は、「成り行きを頂くのに、昔は、ぐうぐうこらえて受けてお
りましたけれども、今は、それが全然障らないんです」と言われました。今までは、
「どうして」と思って受けていたのが、「こうして」というような頂き方がだんだ
ん出来ておられるわけです。
 そういう体験を積み重ねていくうちに、もう成り行きを頂くのが一番だ、と実感
できるようになってきます。自分の我情我欲を出すよりも、自分の才覚で子供を躾
ようとするよりも、もう神様が育てて下さるという確信が頂けるのです。
 今月は1日、3日、6日と、御理解35節を頂きました。35節は、最初に、
「信心は日々の改まりが第一」とあります。何を改まるかと言うと、結局、我を取
る稽古です。信心は、ここにいつ目覚めるかです。我情我欲で生きるよりも、神様
の成り行きの中で生きる方が得だということを、いつ悟るかです。
 私自身この17年の間に、信心とは有り難くなる稽古であり、なぜ成り行きを尊
ばねばならないのか、その理由を否というほど分からせて頂きました。その結論が、
365日、毎日が「おめでとうございます」ということです。
 生きることも死ぬことも、神様の御都合の中にあるということを、本当に分から
ねばなりません。それは、今の常識では、例えば人が死んで、「おめでとうござい
ます」と言えば、馬鹿と思われます。しかし、「生きてもおかげ、死んでもおかげ」
というのが、本当のようです。成り行きを尊ぶ生き方をして、体験をずうっと積み
重ねていくならば、そこまで分かるようになると思います。
 私は、成り行きを尊んで、一切が、神様の御都合の中にあるとしか思いようがな
い体験を積み重ねていくならば、「赤信号もおかげ、青信号もおかげ」「死んでも
おかげ、生きてもおかげ」と思わざるをえなくなってくる、と思うのです。そうな
った時に、なぜ今を喜ばねばならないのか、なぜ成り行きを尊ばねばならないのか
というようなことが、段々はっきりしてまいります。そのような体験を通して、
「一年一年ありがとうなってくる」という信心の稽古を、お互いさせて頂きたい。
本当に、「心一つで総てを創る」世界に、住まわせて頂きたいと思います。どうぞ。


平成12年1月16日 和賀心デー御理解(親先生)


御理解第42節
 これほど信心するのに、どうしてこういうことができるであろうかと思えば、信
  心はもうとまっておる。これはまだ信心が足らぬのじゃと思い、一心に信心して
  ゆけば、そこからおかげが受けられる。


一、そこからの信心が力になるのであり
二、そこからのおかげが本当のおかげである。
三、足りぬことばかりの私に気付くとき、真の信心の姿勢が出来る。
四、このような時、教祖さまならどのように受けてゆかれるだろうか、と思いをそ
  こにおく時、自ずと新たな道が開けてくる。     (昭45・7・24)


 先日、煖エさんのお孫さんが、交通事故でお国替えになられました。寿光(ひさ
みつ)君と言いますが、小学校6年生でした。この寿光君が投げかけてくれました、
一石というものは、もちろん煖エ家にとりましても大きな波紋を広げたことでしょ
うし、合楽教会にとりましても、その波紋の大きさを感じております。また今、
橋さんが御用をさせて頂いております教団的な御用の立場から、これは金光教に波
紋を及ぼすことにもなるだろうと思います。
 今、高橋さんは、北九州教区の信徒会の委員長をしておりますが、高橋さんの周
囲で同じような体験をされた方がいらっしゃるんですね。お一人は、正月に、車で、
ある子供さんをひいて、その子供が亡くなられたそうです。その時に、煖エさんが
「その方に会うのに、どう挨拶したらいいか分かりません」と言われましたが、私
も「本当に神様も過酷なことをなさるね」と申したことでした。そして、煖エさん
の今度のこのことになるわけです。
 そして、もう一方は、高橋さんのところにお悔やみに見えて、「煖エさん、実は
私も数年前に、小学生の孫を交通事故で亡くしましたが、未だに、神様の御神意が
分からん」と言われたそうです。皆さんいうなら、不慮の事故で子供が亡くなると
いう、まさに無情と思える体験をされたんですね。これは、ただ事ではないなあ、
と思います。
  そして、教祖様のことを思いますと、教祖様も身内を5人亡くされ、また生涯を
通して、子供の放蕩や広前建築の不成就など、ずうっと問題を抱えておられます。
初代は、「このような時、教祖様ならどのように受けていかれるだろうかと、思い
をそこに置く時、自ずと新たな道が開けてくる」とおっしゃいました。初代は、そ
れをきちんと説いておられるのです。
 「天地の心知りたし道あらば示せ天地己が心に」というのは、むつやの石井さん
のお母さんが亡くなられた時に頂かれたお知らせです。それこそ、むつやあっての
椛目、椛目あってのむつや、と言われるほどの方でした。この人が亡くなるんです。
その時、初代が神様に、「神様、どういうご都合なんですか」と問われ、頂かれた
御教えが、これなんです。
 私は、それを思う時に、初代にしても教祖様にしても執念深いと思うのです。神
様に向かい通しです。教祖様にしても、初代にしても、そのような時を大切にされ
て、生み出されたんです。教祖様は、「あれもおかげであった、これもおかげであ
った」と。初代で言えば、「天地の心知りたし道あらば」の答えが、天地の心は即
ち「一切神愛」なのです。
  ところが、お互いは、難儀や問題を、時が経つにつれて、何となく忘れたで終わ
らせて、そこから何も生み出してないんです。けれども、有り難いと思いましたの
は、この前の十三日会の皆さんのお話を聞かせて頂いて、本当に合楽全体が、「成
り行きを尊ぶ」というスタートラインに立ったという感じがするんですね。
 今日、この御理解を頂いて、改めて、金光教という宗教は、難儀を取り除くため
に信心するんじゃない。この難儀を頂く宗教です。難儀の奥にある神様の御心を頂
く宗教です。それこそ初代の信心を一言で言えば、「天真地心」です。天の真、天
の働きは、一切神愛、一切真なんだ、と初代の中ではっきりなさったから、後は、
地の心、受けるしかないという信心になってくるわけです。
 私は、寿光君の母親の名前が、寿恵(すえ)ということから、祭詞の中で、「行
く寿恵(すえ)の光となりし汝(いまし)若葉(きみ)」と読ませて頂きました。
そして、寿恵さんに申し上げたのですが、「この問題を通して、『神様、どういう
ご都合ですか』と問う、そこに、『あれはこういうご都合だったんですか』という
ことが、一つ一つ分かってくるようになる。それがあなたの力になる」と。
 皆さん、私達が生きる上で、難儀がないということがあるでしょうか。一切の難
儀がなくなるということは、絶対に有り得ません。それを見極められたのが、お釈
迦様です。だから、この世は苦の世苦の世界ということになったのです。ある意味
では、人類の歴史は、難儀の歴史です。それならば、難儀の正体を見極めるしかな
いのではありませんか。
 今日は、大変なテーマを神様が、投げかけて下さったわけですけれども、この難
儀の正体を見極めるということは、金光教の大使命だと思います。それは、神様の
心を見極めるということですから、大変な作業であろうかと思います。けれども、
これは、教祖様が、また初代が、そのことをして下さったわけですから、その足跡
をお互いが本気で辿らせて頂きたい。どうでも、各々の中で、一切神愛を確立させ
て頂きたいと思いますね。 どうぞ。


平成12年1月9日 和賀心デー御理解(親先生)


御理解第59節
 習うたことを忘れて、もどしても、師匠がどれだけ得をしたということはない。
  覚えておって出世をし、あの人のおかげでこれだけ出世したと言えば、それで師
  匠も喜ぶ。おかげを落としては、神は喜ばぬ。おかげを受けてくれれば、神も喜
  び、金光大神も喜び、氏子も喜びじゃ。


マイホーム的なおかげでは、信心もおかげも落とし易い。落としては神さまは喜ん
で下さらん。生活のための信心だからである。信心のために生活のすべてがある、
と悟らせて頂く信心こそ絶対の信心である。
『神も喜び金光大神も喜び氏子も喜びぢゃ』という信心とは、このような信心を言
うのである。                     (昭46・7・10)


 教祖様の御信心を辿らせて頂き、今こうして世界三大宗教から学ばせて頂く中で、
改めて、教祖金光大神様は、前代未聞の助かりの道を残して下さったと思うんです。
凡人がですよ、凡人が生身を持ちながら、その身そのままで助かっていける。しか
も、この家業の行の中に、です。家業も家業の行も、することは同じなんです。と
ころが、生活のために信心するのと、信心のために生活があるのとでは、内容は全
く違ってくるのです。ですから、家業の行ということになりました時に、信心のた
めに家業があるんだということになります。そうなりますと、その成り行きで磨き、
この成り行きで改まろう、この成り行きを私の信心の根肥やしにさせて頂こうとい
うことになります。
 私は、今日のこの御理解にあります、「出世」ということですが、どうしても私
達が出世をすると言えば、社長さんになるか、政治家になるか、例えば、松下幸之
助のような人になることを出世と思い勝ちなんです。ところが、以前、私は神様か
ら、「出世というのは、世の常識から一歩次元を上げるということだ」と頂いたこ
とがあります。「成り行きは神の働き」なんて、普通の常識から言うなら、非常識
なことです。ですから、合楽の人達は、そういう意味で出世した人達だと思うんで
すね。
  私は今日、御結界に着かせて頂きまして、一番最初にお取次させて頂いた方は、
江上というおばあちゃんでした。この方が、合楽の宴で、「柿の種に柿の芽あり
人の心に生神の性あり」という御理解を頂いておられます。もう80ぐらいになら
れるおばあさんが、普通なら、生神を目指すなんて思いもしないでしょう。けれど
も、私は、その御婦人に申しました。「お互いが生神の性を持っているなら、それ
を育てる精進をすることが、自然なんだ」と。
 皆さんは、1億年先に、私達人間は、どうなっていると思いますか。先が見えれ
ば、今が、いかに大事かが見えます。今私達が精進しております、成り行きを尊ん
でいるということは、思いもかけないような本当のことをしていることが見えます
よ。一つの何の意志もない、生命もない、石ころのようなものの中から、なぜ生命
が生まれたのですか。何十億年かかってますよ。23億年かけて、バクテリアのよ
うな生命が、一つの細胞が出来たのです。そして、ずうっと枝分かれしてくるでし
ょう。海の中に魚が棲み、それが陸に上がって、そして四足が出来る。しかも、こ
れは何億年という単位なんです。ずうっと進化してきているわけでしょう。そうし
たら、皆さん、今の私達が、何十億年先に、このままでいるはずがないでしょう。
どうですか。何十億年先は、今の人間であるはずがないです。進化が止まるはずが
ないわけですから。だから、初代がそれをおっしゃってるんですよ。「この天地の
中には、幾億年かけても丸うせずにはおかんという神の働きが、充満しているんだ」
と。だから、今分かってもらいたいのは、間違いなく、助けずにはおかん、幸せに
せずにはおかん、丸うせずにはおかんという働きが、あなたの中に充満しているん
だということです。そうなった時に、もう「今を喜ぶしかない」と。もう今が、最
高最善の今月今日ということになりますね。
  私達は、今酸素を吸って生きていますよね。ところが、一番最初の原始生物とい
うのは、炭酸ガスを栄養にして生きていたそうです。彼らにとって酸素はものすご
い猛毒なんです。ところが、何十億年、生命が繰り返していくうちに、酸素の中で
生きられるように進化したわけです。そして、必ず共通しておりますことは、進化
して新しい生物が誕生する時には、今までとは異質なものと出会うのです。または、
ものすごい困難な状況になるわけです。例えば、今申しますような、炭酸ガスの中
で生きているものが、酸素に変わるわけですから、ものすごい過酷な状況が生まれ
るわけです。そしてその時、新しい生物に進化していくわけです。ですから、そう
いう意味で、この成り行きを尊ぶ中で、それこそ異質なものと出会う時には、私達
が新たに進化しているんだということです。
 この「今を喜ぶ」という生き方、この「成り行きを尊ぶ」という生き方は、教祖
様がなさり、世界三大宗教の宗祖教祖がなさり、宇宙生命そのものがしているとい
うことです。それほどしの大変なことを私達が日々しているということです。そう
いう意味で、この「成り行きは神の働き」という、この一線上までは出てみて下さ
い。そのためにも、お互いの志を一段高くして頂いて、21世紀に生き残るものと
して、本気で神様のお役に立たせて頂こうという信心に、目覚めて頂かなければな
りません。それもこれも、今申します、この成り行きを尊ぶという、この階段を昇
れば、誰でもそこに来るということです。 どうぞ。


平成12年1月7日 朝の御理解(親先生)


御理解第47節
 祈れ薬れにすればおかげも早いが、薬れ祈れにするからおかげにならぬ。


病気の時は医者、死んだら坊主、果たして医者と坊主でよかろうか。
人間がいよいよの時、どんな無信心者でも何かに縋らなければおれぬと言う。その
縋らなければおれぬ心の比重の相違が祈れ薬れになったり、薬れ祈れになるのであ
る。
『薬れ祈れにするからおかげにならぬ』ということは、病気が治らぬということで
はない。
次の高橋博志先生のおことばで知ることが出来る。
「お取次を頂いておきてくることは、よいことわるいことみなよい。
 お取次を頂かずしておきてくることは、よいことわるいことみなわるい」
御取次の働き、その作用の微妙さが教えられている。   (昭45・7・29)


 合楽の二代として、私がこうして御用にお使い回し頂いておりますが、神様が、
私の性格を使って下さっているなあ、と思います。最近御理解に出てくる、あのD
NAですね。遺伝子と言うんですか。これは、一人ひとり皆違うそうです。もう貴
方しか持たないのだそうです。今、この地球上に3千万種の生物がいるそうです。
面白いですね。木でも、猿でも、人間でも、DNAから成っているんだそうです。
ところが、これはもう貴方しか持たない、という独特のDNAをそれぞれが持って
いるんだそうです。ですから、お互いが自分の命の輝きというものを頂いたなら、
この私でなければ出来ない御用が、必ず有るのです。私の持つ個性的な図柄が、少
し出てきたというだけのことでしょうけれども、それを、私は実感するんです。
 私の性格を神様が利用して下さっている、と。そういう角度から、今日の御理解
を頂きたいと思います。今までの宗教観念の中には、医学とか科学を敵対視するよ
うな面があったと思うのです。ところが、最近実感いたしますことは、例えば人間
の常識でも、学問でも、医学でも、長い長い歴史の中で人類が蓄積してきた知識で
す。そうして見る時に、あれは要らない、これは要らないということはないのです。
例えば、私達は、大きな物を持とうとすると、必ず左手と右手を両方使います。片
手だけでは持てません。(ここでは、左手を超常識の世界、右手を常識の世界と例
えてある。)ところが、大きな落とし穴がここにあるわけです。どうしても、私共
は、自分の才覚、常識、科学の力などを先行しようとしがちです。それは主客転倒
だと思うのです。どっちが主なのかです。そうなりました時に、もう間違いなく、
この成り行きを主にするという生き方です。そして、成り行きプラスの人知です。
成り行きプラスの学問です。そうなった時、『氏子あっての神、神あっての氏子、
あいよかけよで立ち行き』という世界がそこにあるわけです。
 どうしても、私達は、自分の常識に頼ったり、自分の努力で何とかしようという
思いになりがちですから、合楽では、初代から、「右手はいけませんよ。左手を使
いなさい」というような教導を長年受けてきたと思うのです。けれども、ここに至
って、その右手も、実は「御」右手なんだと、「御」常識、「御」人力と頂いてい
かなければ、本当のことにはならない、と教えておられると思うのです。私は、今
何か、科学とか、学問とかいうものに融合出来たような感じがするんです。
 先日も、徳久という方ですが、この方は鮨屋をしておられます。ここ一、二年、
毎日『和賀心学』を徹底的に読んでおられます。それだけで、おかげを頂いておら
れるんです。この方が、「今、神様と二人袴で仕事してます」と面白い表現をされ
ました。神様が後ろから入って、神様が握って下さっている、本当に二人袴の実感
がしますと言っておられました。初代の教歌に、「人力に見切りをつけて 神力に
すがれ 人力自ずから湧く」とありますが、過去の宗教は、「人力に見切りをつけ
て 神力にすがれ」までしか説いていません。ところが、金光教は、「人力自ずか
ら湧く」という世界を現して下さっているのです。今日、私が申し上げているのは、
実はそこなんです。人力自ずから湧く、というところまで行った時に初めて、神様
との本当の働き合いが出来て、本当のことになってくるのです。
 ですから、そのためにも、最後のこの高橋博志先生のお言葉を合楽的に変えます
と、「成り行きを頂いて起きてくることは、よいことわるいことみなよい」となり
ます。合楽の人は、まずはここの観念作りだと思うのです。成り行きを頂かずして、
自分が努力したから金持ちになった、商売がうまくいってる、もう絶対いいことは
ありません。それこそ、人知人力は毒です。だから、「成り行きを頂いて起きてく
ることは、よいことわるいことみなよい。成り行きを頂かずして起きてくることは、
よいことわるいことみなわるい」と。これは、どうでも、私達の生活原理になると
ころまでは徹底して、おかげを頂かなければなりません。そして、今日はその一つ
先を聞いて頂いたわけです。実意丁寧神信心と言われますが、実意丁寧だけでは、
本当にきついです。実意丁寧と神信心が一つになって、本当のことになってくるわ
けです。
  20世紀は、確かに人知人力で開けてきました。しかし、それでは本当のことに
ならなかったのです。これが、負の遺産として、21世紀に受け継がれることにな
りましょう。その負の遺産を21世紀に生かすためには、いよいよ成り行きを尊ぶ
ということを土台としなければならないと思いますね。 どうぞ。


平成12年1月6日 朝の御理解(親先生)


御理解第35節
 信心は日々の改まりが第一じゃ。毎日、元日の心で暮らし、日が暮れたら大晦日
  と思い、夜が明けたら元日と思うて、日々うれしゅう暮らせば、家内に不和はな
  い。


元日の心、又は大晦日の心とはどんな心であろうか。
今日は親教会の月次祭に参拝のおかげを頂いたら、親先生のお説教の中に、今月の
御本部参拝の折、金光さまより御教えを頂かれたお話がありました。
金光さまのお言葉として『何事もありがとうありがとう受けてゆかぬと物事成就い
たしません』
これこそ元日の心、大晦日の心ではなかろうか。
家族中がこの心で、又、社会の中にもこの様な思い方が出来る世の中を祈らねばな
りません。世界の真の平和を祈るとは、こんな祈りをもつ事だと思います。
『信心は日々の改りが第一ぢゃ』と仰せられますから、今日をかぎりに本気で何事
もありがたい、ありがたいでうけて御祈念成就のおかげを蒙りましょう。
                           (昭45・7・17)


 今年に入って、この御理解35節を1日、3日、そして今日と頂きました。しか
も、今日は、寒修行の入りの日です。これは、皆さんも一つ、神様が何をメッセー
ジしておられるのか、練り上げて頂いたらいいと思います。これはただ事ではない
ですよ。
 私の今の信心のぎりぎりを申し上げますならば、「今を喜ぶ」ということです。
今月今日只今の成り行きを喜ぶ、これが最高最善の生き方だということです。いや、
実は、まだまだ目の粗いことです。見逃したり、または、「あらっ、どうして」と
思うような心も出てまいりますけれども、ここにございます、「何事も有り難う有
り難う受けていく」ということが、間違いのない結論だということだけは、私の1
7年間の信心の積み重ねの中で思うのです。ですから、「有り難い」という答えが
出なければ、神様と波長が合っていないんだ、ということで、信心を進めておりま
す。神様が、日々を「おめでとうございます」という心で過ごしてくれよ、と願っ
ておられることは間違いないのです。毎日それこそ元日のような心で目を覚ます。
そのためには、まず第一の条件として、ここに、「信心は日々の改まりが第一」と
言われますように、本気で改まりたい、磨きたい、ということではないでしょうか。
  昨日は、8日の新春合楽の宴のお書き下げを、ということで、書かせて頂きまし
た。今の私の信心の結論は、「今月今日只今を喜ぶ」ということですし、教祖様の
今月今日というのは、「今月今日が最高最善の日」という意味だそうですから、
「今月今日」と書かせて頂きました。そうしましたら、家内が、「私にも書いて下
さい」と言って、自分で竜の張り絵をしている色紙を持ってまいりました。その瞬
間に、神様から「志す人」と頂くんです。竜は、地上では無用の長物ですけれども、
昇天すると、大変なパワーを発揮するんだそうです。私達も、我情我欲を出して生
きたのでは、何の値打ちもありません。もっと有り難いことへ、上へ上へと志した
時に、人間の価値というものは、出てくるのではないでしょうか。
 昨日は、有り難いことに、修行生と大坪家で、この二千年に向けての取り組みを
色々検討する会合をしたそうです。話し合いの中で、「さあ右だ左だ」と検討させ
て頂くことも、有り難いことです。そうさせて頂く内に、より本当が出てきますか
ら。けれども、これは合楽の流儀なのですが、こうしなければならない、と決まり
でしたのでは、何の値打ちもないということです。各々が信心になれば、答えはは
っきり出てくるものです。今申しますように、志を持つならば、あれはしてはなら
ないとか、これはしてはならないとかではなく、そうせずにはおられなくなるので
すから。
 それともう一つ、「なぜ喜ばねばならないのか」です。例えば、お年玉を上げた
時に、「たったこれだけですか」と言われたら、もうやろうという気にはなりませ
んよね。子供がお年玉を貰って喜ぶと、またやろうという気になるものです。神様
も、こちらが、神様が下さる成り行きを有り難く頂けば、神様から成り行きを頂き
続けることが出来るのです。それでも、やっぱり喜び上手な人と喜び下手な人があ
ります。私は喜び下手です。ところが、私のような喜び下手な人でも、成り行きの
親切に触れさせて頂くと、次第に喜べるようになってきます。
 私は、この百年は、一日でも長生きした方がいいと思います。驚くべき事を皆さ
んが体験されることでしょう。うちの家内も、「お父さん、あと3年長生きしたら、
携帯電話一つ持っていれば、お風呂も沸かせる、ご飯も炊ける、トイレに座っただ
けで、健康診断が出来ますよ」と言ってました。あと3年長生きして下さい。本当
に驚くべき開け方をすると思いますよ。しかも、より本当なことになりますよ。私
は、今年に入って、大変楽観主義になりましたが、本当に、毎日そういう感じがす
るんです。これからの時代は、ものすごく良い時代が来そうな気がします。教祖様
のように、先が楽しめる信心が、少しずつ育ってきたのかなあとも思います。そう
いう意味で、この御理解35節そのままに、心がわくわくどきどきするような毎日
を送らせて頂きたいですね。寒修行に当たって、今年に入って3回もこの35節を
下さる神様の思いを、汲み取らせて頂きたいと思います。 どうぞ。


平成12年1月5日 朝の御理解(親先生)


御理解第48節
 わが子の病気でも、かわいいかわいいと思うてうろたえるといけぬぞ。言うこと
  を聞かぬ時に、ままよと思うてほっておくような気になって、信心してやれ。お
  かげが受けられる。


『ままよと思うて放っておくやうな気になって』と言うことは、自分の欲や情を捨
てた姿ですから、神さまに充分の働きが頂ける場を作るようなものです。
その上『信心してやれ』とは、いよいよ信心を進めてゆけと言うことです。
四十八節とは、いつもがおかげのチャンスと言うふうに思います。
常平生がこの気持ちにさせて頂くなら、間違いない御神徳がうけられます。
                           (昭51・7・31)


 初代の信心をたどり、または教祖様の信心の足跡をたどらして頂くと、御二方と
も、何か事があります度に、信心を一段一段進めていかれた方だということが分か
ってまいります。その証しが、教祖様の場合、御神号が変わっていかれますよね。
それは必ず、大きな問題が起こった後なんです。
  ところが、お互いの場合、なかなか信心が進まない。それが、私どもの体質の中
にあったんですね。例えば難儀や問題を頂いた時に、親先生にお願いして、おかげ
を頂く。別にこちらが改まる必要もない、信心を進める必要もなかったわけです。
それで今まできていたというのが、実情じゃないでしょうか。
 初代が福大に入院なさいまして、昭和58年の元旦のメッセージが、福大病院か
ら届きました。それには、
≪とにかく、合楽にね、ご縁を頂いておる一人ひとりが、本当に「一切が神愛」と
いうことを、めいめいの信心体験で確信してもらうということだと思うな。そこか
ら、これは日本国中というよりも世界中の人間に、「こんなにも間違いのない、人
間が幸せになれる道があるんだ」ということを伝えていける、そのためには、やは
り、その実験を、実証をすることだよね。ただおかげを頂くとか、その時その時の
困った問題、難儀な問題を解決して頂くというのではなく、合楽にかけられる御神
願は、もう、ここだと思うな≫
 とありました。ここ数日、実感しておりますことは、この合楽理念というものは
実験実証できるということの凄さです。
 教祖様に触れさせて頂いて、教祖様こそ、家業の中に起こってまいります、その
事柄の一つひとつを実意丁寧に受け抜いていかれた方だ、と分かりました。また、
三大宗教に触れさせて頂いて、天地の心に通うほどしの宗祖教祖という人達は、い
かなる運命も受け抜かれた方だ、と分かりました。そういう流れで見ますと、この
宇宙200億年の歴史自体も、その時その時の成り行きをずうっと受け抜いてきて、
ある時などは、この地球上の全生命が消失するような過酷な運命をたどりながらも、
進化の道をたどってきている、と分かります。だから、私達の成り行きを尊ぶとい
う生き方は、大変なことをしていることになります。
 私は、この17年間、ただ、一つひとつの成り行きを受け抜いて、信心を伸ばし
てきたと思います。事ある度に、行事がある度に、取り組んだというだけです。例
えば、風邪を引いた時に、「これは、神様のどういうメッセージなんだろうか」と、
私の全神経がそこに行きます。そして、「神様が、これを分からせて下さるためで
あったか」ということになるわけです。ですから、私達が信心を進めていく材料は、
目の前にごろごろしているのです。
 この20世紀というのは、負の遺産を残したと言われております。それはそうで
しょう。この百年で1億の人達が、戦争で死んだわけですから。大量生産、大量消
費というようなことで、自然が壊されてきましたから。ところが、私は、この失敗
が素晴らしいことなんだ、と思うのです。百年かけて失敗した、それが次の21世
紀には見事に生かされてくるんだ、いや、生かされねばならないんだ、と思います。
例えば、研究でも、何千回も失敗して、一つの事が出来上がるでしょ。だから問題
は、失敗した原因を分析することだと思います。ですから、お互いも、成り行きを
頂く上で失敗をします。その時、その原因を追求しなければいけません。ですから、
私が、成り行きの実験実証日記みたいなものを書いたらいいですよ、というのです。
 宗教と科学との根本的な違いは、科学の場合は、その研究が蓄積されていくわけ
です。ところが宗教の場合は、これまで、個人的体験で終わっているのです。全然、
積み重ねが出来ないわけです。ところが、この合楽理念は、積み重ねが出来る、ま
た、積み重ねていかなければ駄目です、損です。だから、どうして失敗したかとい
うことをきちっと分析していくならば、必ず、その失敗が生かされてきます。
 これは、私の今の実感ですけれども、自然から学ぼう、ここに極まってきます。
天地と共に歩み、天地に学ぶという生き方は、成り行きを尊ぶという生き方です。
結論を言えば、今頂いているこの成り行きが最高最善である、ということになりま
す。今日の御理解は、何か単純な御理解のようですけれども、こういう生き方が、
宇宙200億年の進化の歴史そのものの生き方をしているということになるのです。
ですから、成り行きは、実験実証の積み重ねをしなければ勿体無いです。そういう
意味で、積み重ねをしたいと思いますね。 どうぞ。


平成12年1月4日 朝の御理解(親先生)


御理解第20節
 此方が天地金乃神よりおかげを受けておることを話にして聞かすのぞ。疑うて聞
  かぬ者は是非におよばず。かわいいものじゃ。また時を待っておかげを受けるが
  よし。めいめいに子を持って合点せよ。親の言うことを聞かぬ子が一番つまらぬ。
  言うことを聞かぬ子は、親もしかたがあるまいが。


思索から生まれた宗教でもなく、又、奇跡が生んだという宗教でもありません。正
に天地と教祖の交流から生まれた真の宗教です。
真の宗教とは読んで字の如く天地が示したことを教えるのが真の宗教です。
『此方が天地金乃神よりおかげを受けて居る事を話にして聞かすのぞ』とあります。
                           (昭56・7・11)
 ※宗教=「宀」は宇宙、又は自然の意。故に天地が示すことを教えるのを宗教と
     いう。


 今度、青年会の人達が年頭参拝して、その足でそのまま天理教本部まで行かせて
頂いたそうです。ですから、天理教から出ている新聞が来ておりました。その中に、
諸宗教会議というのがあって、それにローマ法王庁から招待があったという記事が
ありました。また、これは、泉尾教会から出ている「いずみ」という本ですが、こ
の中で、宗教のグローバル化とか、世界宗教者会議とか、いろいろと載ってるんで
す。私も今度、実感しておりますことは、もう自分さえ良ければ良いという生き方
は、間違いなく時代遅れになり、退化するということです。この天地と共に共存共
栄していけない、自分さえ良ければいい、自分の教会さえ、自分の会社さえ立ち行
けば良いというようなものは、間違いなく自然淘汰されると思います。そういう意
味で合楽の場合は、去年の暮れから成り行きの中で、神様が融合的絶対性という道
を、今日まで開いて下さったと思います。
  「神様の心を心とする」これは、初代がよく言われました。「神様が火の性なら
私どもも火の性に、神様が水の性なら私どもも水の性に」と、このことを合楽は、
50年間、精進してきたわけです。実はそれは、初代だけであったわけですけれど
も、私が、17年間そのことをさせて頂きました。皆さんの場合は、ここ一、二年
でしょうね。そして今、「こんなに間違いない」というような積み重ねを、少しず
つさせて頂いている段階です。その信心というのは、「もう私が改まる以外にない
よ」ということです。そうなった時、「一切の成り行きが、私を育てて下さる材料
である」ということが、だんだん分かってくるのです。
 私はこれほど狂いのない、これほど確かな信心はないなあ、と改めて思います。
これは、もう少し他宗教のことを知って頂いたら、もう確信を持って、それが言え
ると思うのです。本当に初代が求められた信心、または教祖様が求め続けられた信
心は、神様の心を心とするという、この一点に尽きるのです。それを初代は、「真
の宗教とは、読んで字の如く、天地が示したことを教えるのが真の宗教です」と言
われたのです。
  神様の心を心とするということは、合楽の信心の最大の特色だと思います。とこ
ろが、いろんな本を読ませて頂きましたが、他宗教からは、そういう言葉が出てこ
ないのです。神様の心を心とするというのは、余りにも漠として、分からないと思
います。それが何ということはないのです。「成り行きが神様の働きならば、成り
行きを尊ぶことが、神様の心を心とすることだ」と、こんなに簡単に見極めて下さ
ったのです。ですから、皆さんが、簡単に成り行きを尊ぶと言ってますけれども、
実は、大変なことをしているのです。成り行きを尊ぶという、この内容、中身が、
これほどしのことか、ということを分かってもらいたいのです。ですから私は、こ
の合楽の一滴は真水なんだよ、と言うのです。教祖様が信心をお進めになる中に、
「神と同根」というところがあります。神様と同質なのです。皆さんの一滴は小さ
な一滴ですけれども、神様と同質のものを持っているという確信は、持って頂いて
いいと思います。けれども、その天理教の新聞記事を見せて頂いて、桁違いだなあ、
と思ったんです。そうしましたら、神様が面白い演出をして下さいました。これは、
昨日の正奉仕が間違ったのだと思いますが、昨日の参拝者数が1万人になってるん
です。数字が、一桁違うんです。私としては神様が「一桁上がれよ」と言って下さ
るものを感じます。そういう意味で、それぞれが、それこそ成り行きの階段を一段
一段昇らせて頂くことです。
 これは教祖様にしても、初代にしても、そうです。教祖様が、「日天四の照らす
下、万国まで残りなく金光大神でき」と言われたのは、御晩年です。初代も、昭和
49年に、「そういう一つの見本、手本というものが、合楽にできた。それが、神
様の理想であると同時に、また、私どもの信心理想でもなければならない。そうい
うおかげを頂くために、『世界の真の平和』、『和賀心時代を創る』というような、
大きな働きのことのために、合楽教会は生まれたのです」と言っておられます。こ
れはお互いが、成り行きの階段を一段一段昇らせて頂くなら、必ずそこに合流して
いくのです。だから、偶然ではなく、必然的に、今合楽が、ここの流れにきている
んだ、ということを認識させて頂いて、本気で目指したい。そして、今の足元をし
っかり見詰めて、「私の信心」を銘々にして頂きたいと思います。そして、私が正
月からこちら実感しておりますことは、合楽が願っていること、合楽が進もうとし
ている方向、それは神様の心を心としているということです。その確信を持って、
皆さんに信心を進めて頂きたいと思います。 どうぞ。


平成12年1月3日 朝の御理解(親先生)


御理解第35節
 信心は日々の改まりが第一じゃ。毎日、元日の心で暮らし、日が暮れたら大晦日
  と思い、夜が明けたら元日と思うて、日々うれしゅう暮らせば、家内に不和はな
い。


元日の心、又は大晦日の心とはどんな心であろうか。
今日は親教会の月次祭に参拝のおかげを頂いたら、親先生のお説教の中に、今月の
御本部参拝の折、金光さまより御教えを頂かれたお話がありました。
金光さまのお言葉として『何事もありがとうありがとう受けてゆかぬと物事成就い
たしません』
これこそ元日の心、大晦日の心ではなかろうか。
家族中がこの心で、又、社会の中にもこの様な思い方が出来る世の中を祈らねばな
りません。世界の真の平和を祈るとは、こんな祈りをもつ事だと思います。
『信心は日々の改りが第一ぢゃ』と仰せられますから、今日をかぎりに本気で何事
もありがたい、ありがたいでうけて御祈念成就のおかげを蒙りましょう。
                           (昭45・7・17)


 最近私は、信心は、「今を喜ぶ」ということに尽きる、という感じがしておりま
す。「あれもおかげであった、これもおかげであった」という体験を、だんだん積
み重ねていくならば、今起きておる、今頂いた、この問題にお礼を申し上げる、
「今を喜ぶ」ということが、いよいよ本当だなあ、と思うわけです。
 昨日、神戸のある信者さんがお参りになりました。この方は、ご主人が、大変な
借金を残して亡くなられ、この2年、借金地獄というようなところを通っておられ
ます。今、息子さんと二人暮らししておられますけれども、「こんなに有り難いお
正月は、初めて迎えさせて頂きました」と言うんです。そして、二人が共通して、
「もう、その成り行きにすがるしかなかった」と言われました。それを聞きながら、
初代が、あの破れ鞄に破れ靴の時代、それこそ、その日の食べるのに事欠くような
時代に、初代は、久保山先生が、「大坪さん、ほんなこと、そげん有り難かとな」
と言われておられたのを思い出しました。それが、この方とか、神戸の○○さんに
しても、初めは、むしろ、お付き合い程度の信心でした。その人達が、ひとたび、
成り行きに填った時に、ここまでのことが思えるのです。
 昨日は、いろんなお取次があったんですが、その中で、ある方が、夫婦関係の問
題で、「もう辛抱できません」と言って、お届けに見えました。けれども、ここの
ところです。「成り行きを受ける」というのと、「主人から言われたことを受ける」
というのとは違うんです。「主人が言ったからする」というのは、ずうっと不平不
足が溜ります。けれども、「成り行きを尊ぶ」ということは、それを「神様の働き
として受ける」ということですから、「これはどういう神様のメッセージだろうか」
というふうな聞き方、そういう見方が出来るわけです。ですから、見るもの聞くも
のが有り難いという答えしか出なくなってきます。
 昨夜は、目がさえて寝られないんです。それで、テレビをつけましたら、面白い
ですね、時代は確実に変わっていくんですね。「21世紀というのは、どういう時
代になりますか」ということで、いろんな分野の学者が、話し合っておられました。
そして、子供たちにメッセージを、ということで、皆さんが共通して、「自然の不
思議さを知りましょう」とか、「自然を大切にしましょう」ということを書かれる
んですね。私は、それは神だと思うのです。「自然の働きそのものが、神なんだ」
と。だから、私は、本当に、科学者の方が早く神様を知るのではないか、と思いま
した。
 次に、「不老不死の生命」という夢物語のような話があっていました。ところが、
理論上、これは、可能だったのだそうです。そして、この人間の生命体としては、
絶対不可能だということが分かったわけです。それは、生命が、二通りの道を選ん
だのだそうです。ある生物は、大腸菌的生き方。これは、生命体が輪になってるん
だそうで、永遠に生き続けることができる。ところが、人間の生命というのは、燃
え尽きるんだそうです。そして、どこが違うかというと、燃え尽きるというのは、
「新しい命」、「進化した命」のために燃え尽きるんだそうです。ところが、大腸
菌型というのは進化しなかったんだそうです。不思議な世界だなあと思いますね。
科学は、確実に、より本当のことへと積み重ねができるんです。ところが、宗教は、
今まで積み重ねが出来ませんでした。ところが、初代が、この「成り行きを尊ぶ」
ということで、「実験実証」という言葉を使われました。実験実証ですから、積み
重ねが出来ます。そして、私が、初代からバトンタッチさせて頂いて、私が実験実
証して、ここまでは分かったというものを、今度は、恵城にバトンタッチが出来る
だろう、と思います。
 お互いが、「この天地と共に栄えたい、進化し続けたい」と願うなら、「この成
り行きで改まろう。この成り行きで磨いていこう」ということに尽きると思います。
そうなれば、「今日はどのようにして、神様が改まらせて下さるだろうか」と、成
り行きが待ち遠しいですよ。今日は、元日に続いて、御理解第35節を頂いてます。
お互いが、一日を締め括って、夜にお礼を申し上げる時には、「ああ、有り難かっ
た」という答えが出せるような、成り行きの頂き方をさせて頂きたいと思います。
私は、「成り行きと融合していく生き方」というのが、永遠に進化し続けることが
できる生き方だなと思います。 どうぞ。


平成12年1月2日 和賀心デー御理解(親先生)


御理解第19節 金光大神は形がのうなったら、来てくれと言う所へ行ってやる。


時間空間を問わない自由無碍の働きを現わして下さるのであるが、私共は一歩でも
金光大神に近づかせて頂かねばなりません。金光大神も楽、私どももおかげの早道
でもある。
それには、ぎりぎりの自分を発見し、そこからの出発であり、一念発起でなければ
なりません。
「四角四面の鏡の中に入れられた蝦蟇は、自分のきたなさ、あさましさに苦しみ、
タラリタラリと脂を流した。其の脂を練り上げたものが切傷の特効薬となる」これ
はガマの膏売りの口上である。
私共も教えの鏡をみたら、自分のきたなさ、あさましさがうつし出されてくるので
ある。
それが自らの発見ともなるのである。           (昭45・7・1)


 今の合楽の中にも、例えば、本気でお役に立ちたいという人、または、成り行き
を尊ぶということを実験実証中の人、または、そんなことは全く関係なく、ただお
参りしている人、または、まあ、中途半端な人、というように、いろいろな段階が
あろうかと思うのですけれども、今、私が願わせて頂いているのは、どうでもお役
に立ちたい、とここに向かっていくこと、そのために、私がお話しさせて頂いてい
るような感じがするわけですね。ですから、いろいろ信心の段階があっていいと思
うのです。いきなり、世のお役に立ちましょう、世界のことを願いましょうという
ようなことは、出来るはずもありません。
 ですから問題は、お互いの信心の原点です。私は、初代のお手代りをさせて頂い
て、今日のこのミニ御理解ではありませんが、本当に冷や汗をタラリタラリと毎日
流しました。どうしてこの成り行き一つを尊ぼうとしなかったのだろうか、と思い
ます。口では一切神愛と言いながら、心の中は、いつもいらいらしたり、先々に対
する不安があったりでしたからね。本当に冷や汗を毎日流して過ごさせて頂きまし
たが、おかげで自分を見極めることが出来ました。ですから、皆さんも銘々が、自
分が今どの段階にいるのだろうか、と点検をして頂かなければならないと思うので
す。そうしなければ、次の階段がはっきりしないのです。
 昨日元日祭が終わりまして、総代の人達が私の部屋に挨拶に見えました。そうし
ましたら、お茶請けに干柿が出たんです。そしてこれは、神様の一つの演出と言い
ましょうか、次々に挨拶に来られて、神戸のある信者さんが来られたところで、丁
度きっちり、その干柿がなくなったんです。実はこの方は、去年自己破産したんで
す。ところが、その破産宣告の通知書を見て、もう感動して感動してお礼の電話が
かかってきました。本人も、どうしてこれをこんなに喜んで受けられるのか分から
ない、と言って。この人は、それこそ、もとは短気だし、けんかはする、そんな性
格の人が、どうしてこんなに自分が変わったか分からないと。そして、お茶請けに
干柿が出たものですから、感動一杯で、「これはおみやげに下さい」と言って、持
って帰られました。
 本当に、この成り行きというのは大変なことだなあ、これを受けるということは
本当に力が要るなあと思います。けれども、今度様々な他宗を勉強させて頂いて、
改めて、私は、成り行きを尊ぶということは、生身の人間が唯一出来る行だ、と確
信しました。昨日もお話ししたように、例えばキリスト教は、日本だけでも、これ
までに30万ぐらいの人が殉教しているそうです。それから、これも神ながらなこ
とですが、梶原先生がビデオに収めてくれていた「仏陀」というテレビ番組を見た
んです。経文が残るところの過程が描かれていました。漢字をひと彫りひと彫り彫
っているんです。そうして経文が残されているんです。だから、私は、それを見た
時、兄弟をすぐ呼びました。「ちょっとおまえ達考えてくれ」と。初代の信心、教
祖様の御信心を残すと言い、現わすと言いながら、どれだけの布教エネルギーをも
って願っているのかということです。せめて、家業の行のこれくらいの成り行きは
頂けるよ、と。例えば、キリスト教徒のあの殉教に比べるなら、この成り行きなん
か軽いものですよ。私達がそんな難しい勉強をしなくてはならないのですか、と言
うけれども、あの膨大な仏典を勉強しなくてはならないというなら出来ませんけれ
ども、それくらいの精進はさせて頂いていいよ、と。ですから、先月は、せめて私
達だけでもその作業をしようということで、朝の10時から2時ぐらいまで、ずっ
と研修させて頂きました。
 「金光大神は形がのうなったら、来てくれと言う所へ行ってやる」とおっしゃい
ますが、余りにも私達が近付こうとしなかったのではありませんか。そして、私達
は、教祖様はちっとも来てくれない、と言っていたのです。そうではありません。
私達の方が、教祖様にチャンネルを合わせていないだけです。これは、私が初代の
御帰幽を頂いて、初めて分かりました。この成り行きというチャンネルに合わせた
ら、初代がどんどん現れて下さるわけです。ですから、私達が、本当に教祖様に会
いたいなら、教祖様に近付かなければなりません。本当の教祖様の実像にチャンネ
ルを合わせなくてはなりません。
 そのためにも、お互いが、自分の信心の段階を知ることです。そして、そこから、
この成り行きを尊ぶという階段を、一段一段登っていけばいいのです。 どうぞ。


平成12年1月1日 元日祭御挨拶(親先生)


 皆さん、明けましておめでとうございます。
 今年は、真に大節のお正月を迎えさせて頂いて、倍ぐらいの大きな声で「おめで
とうございます」と言いたいような感じが致します。
 今日は、神様からのお年玉を皆さんに差し上げますので、是非頂いて下さい。神
様のお年玉というのは、今朝の御理解です。今朝は、35節の「信心は日々の改ま
りが第一じゃ。毎日、元日の心で暮らし、日が暮れたら大晦日と思い、夜が明けた
ら元日と思うて、日々うれしゅう暮らせば、家内に不和はない」という御理解でご
ざいました。正月の今日に、この元日の心を頂きなさい、と。今日なら皆さん、少
しは実感できるんじゃありませんか。今日ぐらいは、というような一つの決意、新
たな心、それを今月今日と言うんです。今月今日というのは「今日が一番最高の祝
い日だ」という意味だそうです。先日、竹内先生が、一年間のお礼に見えました。
体が、ご不自由な中を通っておられます。そして、先生がそのことを言われたんで
す。「親先生、本当に毎日毎日を、今月今日で過ごさせて頂けました」と。
 本当に神様と私の思いがぴたっと合っている。または、今、合楽がやろうとして
いることが、神様の思し召しにかなっているんだ、と確信させて頂くのでございま
す。そうしたら、今、秋吉教会の長男が、合楽に修行に入っておりますけれども、
感動いっぱいにお届けに来るわけです。実は、今日が、北村信道先生の誕生日だそ
うです。北村先生が生まれた時、先代が抱いて、「この子は金光教の宝になる」と、
お三方の上にのせてお供えしたんだそうです。ところが、いわゆる貧乏のどん底の
教会を見てますから、「もう金光教の先生なんかなるもんか」で、一流大学を出て、
一流企業に勤めました。ところが、それこそ絶好調の時に、奥さんがビルから飛び
降りての自殺です。それが、きっかけでした。北村先生が目を覚ましたのが、ちょ
うど昭和57年でございました。今日が誕生日ですから、息子がお父さんに「おめ
でとう」という電話をしたわけです。そうしたら北村先生も、今朝、この35節を
頂いているのです。この北村先生と私との関わりには、いつも不思議な働きを感じ
るのです。
  これは、北村先生だけのことではございません。合楽に皆さんがこうやってご縁
を頂いているのは、赤い糸で手繰り寄せられるようにして、ご縁があったんだと思
うのです。それでは、何のために合楽にご縁があったのか、ということになると思
います。それはただ一つ、成り行きが神の働きということを分からせて頂き、そう
いう生き方をすることのために、合楽にご縁があり、私はそのために、この合楽の
二代を継がせて頂いたと、今実感しております。教祖様の勉強を少しさせて頂きま
してはっきりしましたことは、この成り行きを尊ぶということが、教祖様の生き方
の根本であったということです。教祖様は、日々家業の中に起きてまいります全て
の事柄、神の差し向けを実意丁寧に受け抜かれた方でございました。そして、世界
三大宗教を勉強させて頂きまして、天地に通うほどの宗祖教祖であるならば、運命
を愛した方でございました。全ての、自分に起こって来る運命を愛した方でした。
その最たるものが、キリスト様が十字架にかけられる時の、「神様の御心ならば受
けます」という御姿ですよ。
  そういう過酷なことを私達にしなさいと言うなら、出来ません。けれども、教祖
様の真似なら出来る。いや、初代の真似なら出来る。いや、私の真似なら、いよい
よみやすいです。この17年の間に、これだけは受けられない、ということは一遍
もありませんでしたから。そして、この生き方は、金光教の理念であり、世界宗教
の理念であり、そして人類の21世紀の理念だと確信するようになったのです。こ
れは、私が、謙遜して言うのではありません。もう自分のことは、自分が一番分か
ってますから。私は、本当に利己主義です。人間は、本質的にはエゴです。その人
間が、変質していけるんです。例えば、りんごが柿に変わるということはありませ
ん。以前、イギリスの宗教学者がお見えになりました時に、ちょうどそこに干し柿
がお茶請けに出たんですね。そうしたら、初代が、人間の本質というのは、ちょう
どこの干し柿みたいなもんじゃないでしょうか、とお話しされました。渋柿のよう
な人間が、皮をむかれてつるされて、白粉ふきつつ甘くなる哉ではありませんけれ
ども、人間は、変質していく可能性を持っているのです。ですから、私が、変質し
ていくことは出来るんです。我利我利亡者のような私が、世界のことを祈れる。一
体これは何だろうか、と思います。
 合楽の信心は、生身の人間が普通の生活をさせて頂きながら助かっていける道で
ございます。自堕落な私達が自他楽の世界に住める道を、初代が残して下さいまし
た。だから、朝参りぐらいは、せめてもの修行です。ですからどうでも、信心を頂
く家庭の家風となるところまでは、朝を大事にしなくてはなりません。そして、こ
の天地と共に永遠に繁昌していける生き方が、今朝の御理解の中に凝縮されている
ものを感じます。成り行きの中でさまざまな宗教に出会わせて頂いて、改めて、な
ぜ金光教なのかが、また、金光教の教祖しか説き得ないものが、浮き彫りになって
まいりました。合楽が進もうとしている方向は、神様が進もうとしておられる方向
です。それこそこの一年です。皆さんにどうでも、「成り行きは神の働き」と確信
して頂ける一線上には、出て頂かなくてはなりません。私は、神様が急き立ててお
られるようなものを感じるわけです。 どうぞ。


平成12年1月1日 朝の御理解(親先生)


御理解第35節
 信心は日々の改まりが第一じゃ。毎日、元日の心で暮らし、日が暮れたら大晦日
  と思い、夜が明けたら元日と思うて、日々うれしゅう暮らせば、家内に不和はな
  い。


元日の心、又は大晦日の心とはどんな心であろうか。
今日は親教会の月次祭に参拝のおかげを頂いたら、親先生のお説教の中に、今月の
御本部参拝の折、金光さまより御教えを頂かれたお話がありました。
金光さまのお言葉として『何事もありがとうありがとう受けてゆかぬと物事成就い
たしません』
これこそ元日の心、大晦日の心ではなかろうか。
家族中がこの心で、又、社会の中にもこの様な思い方が出来る世の中を祈らねばな
りません。世界の真の平和を祈るとは、こんな祈りをもつ事だと思います。
『信心は日々の改りが第一ぢゃ』と仰せられますから、今日をかぎりに本気で何事
もありがたい、ありがたいでうけて御祈念成就のおかげを蒙りましょう。
                           (昭45・7・17)


  いよいよに、二千年の幕が切って落とされたということになります。私は改めて、
この二千年という人類の大きな岐路に立って、この二千年に対する、神様のメッセ
ージを頂くようなつもりで、今日の御理解を頂きました。本当に合楽の人たちは、
といいましょうか、私の中では、見事なリズムに乗せて頂いて、スタートを切らせ
て頂いておるなあ、と感じるんですね。昨日は、寝むのが、12時を回っておりま
したが、1時間おきくらいに目を覚ますんです。それが、さわやかな目の覚まし方
なんです。ですから、まだじゃろうか、というような、何かそんな楽しい思いで、
今日の元日を迎えさせて頂きました。本当に、お互いが、目を覚まして、わくわく
どきどきするような、うれしくて、楽しくて有り難いというような毎日が過ごせた
ら、こんなに有り難いことはないですよね。
  御祈念が終りまして、テレビをつけましたら、二千年に向けてのメッセージとい
うのがあってました。ある企業の社長さんが、「富める国から、徳のある日本にな
らなければだめです。その為には、自分が儲かればよいというのじゃなくて、本気
でお客さんに喜んでもらう、これが本当の商いです」と。次の方は、『五体不満足』
という本を出されている学生さんでした。生まれつき、両手両足がない。「これが
私の個性なんです」と言ってるんです。そして、もう一人の方は「私は、ボランテ
ィアをしておりますが、人のためにしておるんじゃないです。それによって、自分
の存在価値を感じるんです」と。
  それ見せて頂いて、初代が言われました、寒天危地の世の中が、歓天喜地になる、
と確信しました。確かに人間の本質は、エゴかも分かりません。けれども、それが
育っていったら、いいのです。私が自信を持って申し上げたいのは、そこです。私、
本当に、利己主義な人間です。その私が、こうやって、成長してくるんです。本当
に、世界のことを祈らずにおれない私になっておるという事実です。自然淘汰とい
うことを言いますよね。自然環境に適する者が生き残る。本当のものが、生き残る。
だから、確かに利己主義的なものは、自然淘汰されますよ。そして、反対に自然繁
栄・自然繁盛というのがあります。合楽でいう、成り行きを尊ぶという生き方が自
然繁盛なんです。これは、私が、この17年間の歩みを見せて頂いて、本当に物事
が自然に自然に整うてくる。しかも、そういうエゴの塊の人間が、世界のことが願
えるようになるということのすごさです。お互いが、いよいよこの天地とともに永
遠に繁盛していける道を歩ませて頂きたいですね。これは、皆さんが、実際に取り
組んでおられるんです。日々の生活の現場で、家業の行として、なさっていること
です。その生き方が、21世紀の理念になりうるんです、ということを私は、分か
ってもらいたいわけです。
  「成り行きは神の働き」というのは、教祖様に出会う前は、合楽教会だけの理念
でした。ところが、教祖様を知らせて頂いて、教祖様こそ、成り行きを尊んだ御方
だったじゃないですか。そうする時に、この生き方は、金光教の理念でしょうが。
そして、今、私が世界三大宗教を勉強させて頂いて、全てがここに帰ってくるんで
す。最近の新興宗教は、別ですよ。天地に通う程の宗祖教祖なら、みんなここに帰
結してきたんです。全ての方が運命を愛した方です。全てを神様のお働きとして受
け抜かれた方です。それ程のことをお互いが日常茶飯事にしておるということです。
世界の平和とか、宗教革命とか、そこだけを皆さんが聞くから、何か、程遠い感じ
がしますけれども、今、あなたたちがやっておられる、成り行きを尊ぶという生き
方が、人類を救うんです。しかも、私たち凡人が日々、神様を身近に身近に感じて、
信心のけいこが出来る。日々の生活が出来る。こんなことは、今まではありえなか
ったことです。
  信心は、日々の改まりが第一です。変わらなきゃ損です。皆さん、自分で自分が
変わっていく姿を感じていますか。もしも、それを感じていないなら、成り行きを
尊んでいないからです。成り行きを尊ぶということ、この成り行きで改まろう、こ
の成り行きで磨いていこう、この成り行きで、神様が私に何を分かれ、と言われて
いるのか、と頂いていくことです。今日は、二千年のスタートを切らせて頂くにふ
さわしいメッセージを頂きました。本当に、成り行き中心の生き方をさせて頂いて、
いよいよ自然繁盛の道を歩かせて頂きたいですね。 どうぞ。





<合楽教会御理解目次へ戻る>     <日本語表紙へ戻る>
--------------------------------------------------------------------------