金 光 教 合 楽 教 会 の 御 理 解

平成11年12月26日 和賀心デー御理解(親先生)


御理解第44節
 狐狸でさえ、神にまつられることを喜ぶというではないか。人は万物の霊長なれ
  ば、死したる後、神にまつられ、神になることを楽しみに信心せよ。


金光大神の道は、凡夫の身そのままに神に至る道なり。
出家することもなく、修道院に入ることもなく、人間を幸福にせずにはおかんとい
う神愛に触れながら……。
その親神の思いにふれる時、いよいよ神の道をたどらずにおられない。
                            (昭57・7・4)

 1999年の最後の和賀心デーに、先週と同じこの御理解を頂きます時に、お互
いがより高度な助かり方、より確かな助かりを頂くためには、どうでもやはり、お
互いの信心を一次元上げなければなりません。初代は、それを絶対の助かりと表現
なさったわけです。
  初代のご出現の意義と言いましょうか、合楽教会の存在価値というものを思いま
す時に、昭和49年の初代のお話の中のこの一節になると思うのですね。それには、
「私は思うのですけれども、合楽という地名から、神様の願いを自分の身にひしひ
しと感じます。いよいよ世界の人たちが助かっていく、和賀心時代をいよいよ創っ
ていく、というようなおかげを頂くということは、まず、自分の心から、自分の家
庭から、いわば苦悩、苦しみ悩みというものが、取り除かれなければならない。そ
して、喜びの世界を現していかなければならない。そういう一つの見本、手本とい
うものが、合楽にできた。それが、神様の理想であると同時に、また、私どもの信
心理想でもなければならない。そういうおかげを頂くために、『世界の真の平和』、
『和賀心時代を創る』というような、大きな働きのことのために、合楽教会は生ま
れたのです。同時に、大坪総一郎もそのために生まれた。そういう確信を、最近し
きりにさせていただきます」とあります。
  どうでしょうか、我々凡人が、そんな世界平和を願う、また、今日の御理解から
いきますと、我々凡人が神を目指すとか、程遠い話でしょうか。昨日、少年少女会
が、「感謝の夕べ」で、なんと、イエス・キリストを上演いたしました。それも、
神様のいろんなおかばい、ご演出を頂きながらでした。その前日には、福岡女子大
学の教授で、日本に2人しかおられないという、神学を修められた方にお会いさせ
て頂きました。その帰り際に光昭が「実は、明日、うちの子供達が、イエス・キリ
ストを上演するんですよ」と言いましたら、びっくりなさいまして、「それじゃ私
も見に行っていいですか」とおっしゃるわけです。別にお仕事があったんですけれ
ど、キャンセルして、昨日、お見えになりました。本当に神様が花を添えて下さっ
たというか、こういう融合が出来ていくんだなあ、と思わせて頂きました。これは、
まだ、合楽の場合、小さな融合ですよ。けれども、こういう融合的革命、融合的な
関係の中で世界宗教と手が結んでいけるようになるなあ、と感じさせて頂きました。
  昨日、ご覧になった方は、実感的に分かるでしょうが、本当に直視できないよう
なキリストの最後の十字架の姿ですよ。だから、わざわざ、愛する我が子をこうし
てまで、神様が、何を私たちに訴えたかったんだろうか。または、教祖様の御一生
のご修行、または、初代の御一生のご修行というものが、何を私たちに伝えたかっ
たんだろうか、と思わなければなりません。結局私は、究極の助かりだと思うんで
す。お互いが、ただ、日々の、目先目先の助かりを頂けばよい、ただ、教会が立ち
行けばよいで、済まされますか。
  キリストにしても、教祖様にしても、初代にしても、あれだけのご修行を通して、
「成り行きを尊ぶ」「成り行きが神の愛なんだ」ということを語りかけたお方だと
思います。ですから、昨日は、人間イエスが、神になったという姿を描いたんです。
今のキリスト教から言うなら、とんでもないことでしょうがね。そして、私達に強
烈なメッセージを残してくれたという、ストーリーを描いたわけです。あれだと、
熱くキリストを語っていけましょうが。あの聖書のままだったら、あんなに熱く、
生き生きとキリストを語れないですよ。そういう意味で、本当にキリスト様が喜ん
で下さっているだろう、と思います。
  この御理解を2週続けて頂いて、私達が、世界の平和を願わんでいい、神様にな
らんでいい、それで済むなら別です。それこそ、お互いが日々の生活に追われる一
生でいいなら、別です。けれども、どう考えても、合楽教会にかけられた神様の願
い、また、実は、昨日の、少年少女会が描いたキリストのテーマだったわけですが、
一人一人に神様の願いがかかっている。イエス・キリストだけじゃない。教祖様だ
けじゃない。初代だけじゃない。私に、皆さんに、そういう願いがかけられての私
達じゃありませんか。その万物の霊長としての願いを、どう受け止めるか。そうい
う意味合いで、新たな2000年を迎えるにあたりまして、そういう神の願いに生
き目覚めるおかげを頂きたいと思います。
 私も、昨日、初めて見ました。こんなに生生しいキリストです。そういう意味合
いで、キリストより教祖様、教祖様より初代、初代より私と、見易くなったんじゃ
ありませんか。こんなに見易い助かりの道を開くために、キリスト様は、その本を
とって道を開かれた、大本の方だなあ、と今日は、思いますね。 どうぞ。


平成11年12月19日 和賀心デー御理解(親先生)


御理解第44節
 狐狸でさえ、神にまつられることを喜ぶというではないか。人は万物の霊長なれ
  ば、死したる後、神にまつられ、神になることを楽しみに信心せよ。


金光大神の道は、凡夫の身そのままに神に至る道なり。出家することもなく、修道
院に入ることもなく、人間を幸福にせずにはおかんという神愛に触れながら……。
その親神の思いにふれる時、いよいよ神の道をたどらずにおられない。
                            (昭57・7・4)


 「死したる後、神になることを楽しみに信心せよ」とあります。これは、凡人に
はなかなか実感できないことでしょう。皆さんが、神になろうとは思わないでしょ
うし、また、死んだ先のことまで、なかなか実感的に思えないことでしょう。けれ
ども、少なくとも、これも神ながらだなあと思うんです。
  今までは、世間をさわがしている宗教などを、腹立たしいような、見下したよう
な思いでみておりました。けれども、私の中にあった排他的なものが壊れ、新たな
視点からみます時に、「神様が私達にああいうものを見せながら、どんなメッセー
ジを下さっているのか」ということになってきました。
 そこで、皆さんが、本気で気付かねばならないと思うのは、「宗教に何を求める
か」なんです。取り敢えず、商売繁盛のおかげを頂きたい、○○のおかげを頂きた
いというような、目先の即効的なおかげを追い求めるから、変な宗教にだまされる
んです。決して、おかげを求めてはならないということではありません。真の信心
には、おかげは自ずと付いてくるものです。要は、皆さんが、宗教に何を求めるの
かなのです。
  そうしてみると、この御理解などは、本当にすごい御理解ですよ。私は、世界三
大宗教を勉強させて頂いておりますけれども、凡人誰でもが神になれるなんて、誰
も説いておられないのです。「生神とは、ここに神が生まれるということで、みん
なもその通りにおかげが受けられるぞ」と、こんな宣言をした宗教家はないですよ。
しかも、凡人が神になっていけるのです。
 それを初代は、ここで、「金光大神の道は、凡夫の身そのままに神に至る道なり」
と説いておられます。けれども、皆さんが、これをどこまで実感できるでしょうか。
いや、私も初代を見て、とても初代のようにはなれない、教祖様のようにはなれな
い、と思っていました。
 ところが、成り行きを尊んでいく中で、生神様には遠い道のりですけれども、少
しは変わってきていると思うのです。少なくとも、「この階段を上っていくならば」
と、先が楽しみになっております。
  宗教は、本来、未来に対する不安から生まれてきたそうです。未来に対する不安
が持てるというのは、人間だけだそうです。ところが、宗教が不安をあおっていま
すよ。安心を与えなければいけない宗教が、不安をあおってませんか。
 教祖様のこの教典には、「先を楽しむ」という言葉が、2百数十カ所出てきます。
不安に駆られて信心するのと、先を楽しみに信心するのとでは、大変な違いです。
私は、先を楽しめる信心とは、成り行きの中に神様を感じられる信心だと思うので
す。先程ある方が、「難儀というものは、神様のからくりと分かりました」と言わ
れましたよ。「すごいことを言うな」と思いますね。本当に、難儀というものは、
神様のからくり、いやもっと言えば、「あなたを助けたいばっかりの神様のご演出」
ということが分かれば、不安に駆られて信心しなくていいんです。
  私は、今、「21世紀の宗教のありよう」を本気で求めています。ですから、こ
こ10日間くらいでしょうか、兄弟で、「宗教の中にこれがあったらおかしい」と
いうものを拾い出しているんです。例えば、宗教の名のもとに人が殺される。こん
なことがあっていいはずがないでしょう。ところが、既成の宗教の中にも、これが
あるんです。また、お金をいくら出さなくては、助けてやらんという神様が、ある
と思いますか。そういうものをずっと拾い上げていきますと、ほとんどの宗教が落
伍するんです。
 ところが、金光教には、そんな妙なものが一つもないのです。例えば、「お供え
物とおかげは、付きものではないぞ」と、こんなにはっきり言った教祖はいません。
教祖様は、人を殺せとおっしゃいましたか。「宗旨嫌いをするな」、「薮神小神で
も拝んで通れ」とおっしゃってますよ。
 そういう意味で、金光教こそ、まさに21世紀の宗教だと思うわけです。ですか
ら、お互いが、もっと大きなところに焦点を置いて、信心をしなければなりません。
そのためにも、今までの神観念や宗教観念は、捨ててもらいたいですね。
  極端な言い方ですけれども、今までの宗教観念による神様なら、信じない方がい
いです。それよりも、成り行きを信じて下さい。「成り行きは神の働き」というこ
とを信じて下さい。これなら誰でもが信じられるんです。そして、その働きの偉大
さです。こんなに先を楽しめる信心があるだろうか、と思います。
 我々凡人が、こういう遠大なところに願いを置いて信心させて頂けるということ
が有り難いなあと、今日は、そういう感じが致します。願いは遠大でも、一歩一歩
確かめながら、この階段が上れるということの有り難さです。皆さんもそれを感じ
て下さい。初代が「信心は、有り難くて、楽しくて、愉快だ」と言われてましたけ
れども、そういう信心をしたいですね。 どうぞ。


平成11年12月6日 朝の御理解(親先生)


御理解第39節
 此方の行は水や火の行ではない。家業の業ぞ。


家業の内容が行になるとき、家業により徳を受けてゆける道である。
勿論、内容は心行に通ずるものでなければならぬ。
合楽において表行全廃のおかげをうける様になって七年、いよいよ「心行 信行
家業の行」に取り組むことになった時点より教会の比礼ハ倍増している。
ちなみに、火や水の行によるおかげは質屋で金を都合するようなもの。
心行、家業の行ハ自然の恵みで都合がつくようなもの。  (昭56・7・30)


 今日は、「家業の行の中身のすごさに、よくぞ気付いてくれた」と、教祖様が
「サンキュー」と言って下さるようなものを実感しております。ここに初代がおっ
しゃっていますように、今まで誰も家業を行までたどり着かずに、家業が生活のた
めであったり、家業に精を出していれば、修行しているような思い方をしていたの
です。「家業の行の中に真に有難し、また、人が助かることさえ出来ればの精神が
育ってゆかねばなりません」とおっしゃっていますが、いや、家業の内容が行にな
っていく時、それは育っていくんです。本当にこの家業の行一本でお徳が頂けるの
です。それをどうでも、お互いが成就したい。
 先日お会いして以来、何をしていても、カトリックの司祭様のことが頭に浮かん
できます。なんと尊い、なんと厳しい修行だろうと。また、「沈黙」という映画の
中に出てくるキリスト教の聖職者の布教の、なんと厳しいことだろう、と。神のた
めなら命も要らない。神のためなら結婚もしない、家庭も持たない。一生独身で通
すというのは、今日的殉教だと思いますね。とても私なんかには出来ません。それ
に比べて、合楽の信心は何でもありなのですから、合楽理念のバックボーンの中に、
せめて「楽はしません」という姿勢、せめて朝を生命とすることくらいはしていい
んじゃないかと思います。
 1年後に、21世紀という新しい世紀を迎えるに当たって、私は「誰が何と言お
うと、私の一生は、成り行きを尊ぶということで行こう」と決心させて頂きました。
これは、私が17年間、確かめて確かめて、いよいよ間違いがないと分からせて頂
いた生き方です。そしてまた、今日、排他的絶対性から融合的絶対性へと向かわせ
て頂いております。その中で、キリスト教もイスラム教も仏教も勉強させて頂いて
おります。まあここまでのわずかな体験ですが、成り行きを尊ぶということに、一
切の宗教がつながってくる、しかも、人間幸福の根本、源流がここにある、と確信
しております。
 昨日、「イスラム潮流」という番組を見ながら、なぜ、イスラム教がこれほどま
でに広がったのかを分からせて頂いたような気がします。その一つが、ウンマ(共
同体)ですね。どん底にある人が、「お前一人じゃないよ、俺達も一緒なんだ」と
いうことで共同体意識が生まれてきて、希望を見い出していくのです。
 これが、コーランの中に64回出てくるんだそうです。それに、もう一つが間違
いなく、拝礼5回です。しかも、イスラム教の祈りは、おかげを頂かせて下さいと
いう祈りじゃなくて、神様を称えるための祈りなんです。「神は偉大なり、マホメ
ットは偉大なり」という祈りなんです。
 合楽では、拝礼3回と申しております。朝、祈る時に、「今日も一日成り行きを
頂かせて下さい」という祈りです。昼、祈る時に、「今まで、本当に成り行きを尊
んだだろうか」と反省し、「あと半日、本気で成り行きを尊ばせて下さい」という
祈りです。そして、寝む時に、「今日一日成り行きを尊んだ一日だろうか」と思い
を致すのです。皆さん、そのくらいの努力はして頂かなければ、積み重ねが出来ま
せんよ。例えば私の場合は、365日24時間、どこを切って頂いても、成り行き
漬けです。ここまで来るために、やっぱり、そのくらいの精進・決定というような
ものが要るのじゃないでしょうか。
 私達のような凡人でも唯一出来る道、それが「家業の行」です。生活する中に、
確かに煩わしい事もたくさんあります。けれども、教祖様は、その煩わしい事柄の
すべてを、自分の心の土壌を育てる根肥やしになさった方です。「嫌なもの、嫌な
こと、すべてが心の肥やし」です。これが分からないからこそ、ほかに修行の場を
求めるのです。それこそ「家業の行」の内容・中身が分かると、本当にすごいです。
ですから、皆さんの体験の積み重ねの中で、「家業の行」というものが前代未聞で
あり、まさに前人未到の道であることを明らかにしていってもらいたいと思います。
 昨日の決起大会の最後のまとめの中で、秋永先生が「ここまでは分かった」とい
う表現をしましたが、この自覚ですよ。そして、「今まで、何にも分かっていなか
った、何もしてなかった」ということです。今からでも、遅くはありません。それ
が信心の目覚めです。
 そして、第一歩の階段が、朝を生命とすることです。そのために、それが邪魔に
なっているのならば、極端ですけれども、夜の御祈念も止めてもよい、御用でくた
くたなら、御用も止めてもよい、と言っているのです。まずは、朝に全力投球出来
る体制を作ろうということです。
 「家業の行」一本で、お徳が頂ける道というものが実証されたら、宗教革命です。
家業は即宝庫です。その宝庫をお互いが、どれほど宝庫に出来るか、ということだ
と思います。 どうぞ。


平成11年12月4日 朝の御理解(親先生)


御理解第36節
 日本国中のあらゆる神を、みな信心すると言うが、それはあまりの信心じゃ。人
  に物を頼むにも、一人に任すと、その人が力を入れて世話をしてくれるが、多く
  の人に頼めば、相談に暮れて物事はかどらず。大工を雇うても、棟梁がなければ
  ならぬ。草木でも芯というたら一つじゃ。神信心もこの一心を出すと、すぐおか
  げが受けられる。


道は一筋
頼むはこの方御一人
『この一心』とは
信心が生命と定まること                (昭45・7・18)


  今日は、決起大会が持たれることになりました。本気で信心が分かりたい、とい
う人達が、今日は集まって下さると思います。だだおかげを受けたいとか、帳面消
しではなかろうと思うのです。来年には、布教50年というような、一つの大きな
区切りがありますから、それに向けて本気で、信心を身に付けよう、というような
ことが動機となりまして、今日の催しとなったわけです。正にこれは、合楽の力だ
ろうと思います。
 例えば、そこに何千万何百万の信者が出来たと致しましても、ただおかげを求め
るだけなら、それこそ枯れ木も山の賑わいということになって、神様はお喜び下さ
るまいと思います。本当に神様の心を心としたいという人達の、今日の集まりとす
るなら、これは前代未聞のことでしょう。そこで今日は、何を分かって頂けばいい
のか、そのことを、教祖様並びに初代にお願いさせて頂いて、和賀心教典を開かせ
て頂きましたら、このミニ御理解を頂きました。もう私の一生は、それこそ馬鹿の
一つ覚えと言われてもいいですから、いよいよこの事だけを明らかにしようと決意
させて頂きました。このミニ御理解を、私の今日的な頂き方に致しますと、「道は
一筋 頼むはこの御成り行き この一心とは 成り行きが生命と定まること」とな
ります。これは正に、合楽の神観です。過去の宗教の中で、どうしても、神という
ものが、偶像化されてきたという感じがします。いうなら、ここに全知全能の神が
あって、いい人にはご褒美をあげよう、悪い人には罰を当てるというような、様々
な偶像的神様を、私達は作り上げてきたと思います。ですから、過去の神観、過去
の信心を一遍捨てなければ、本当は、合楽で言われる「成り行きは神の働き」とい
うことは分かりません。本当は、これは凄い、前代未聞の神観ですよ。しかも、こ
れならば、私達凡人が、普通の生活をさせて頂きながら、そこにここに神様を感じ
ていけるのです。
  昨晩、寝もうとしましたら、恵城から電話がありまして、「今キリスト教の番組
がテレビであってるよ」と言うのです。遠藤周作原作の「沈黙」という映画でした。
あの鎖国時代に、キリシタン廃止令が出ます。日本だけでも、20万から30万の
人が殉教しています。それを土台にしての映画でした。このキリスト教の人達の布
教の情熱というのは、尋常じゃないです。日本に送り込まれる人達が、次々に殉教
していくのです。それでも、青年がまた、日本に布教にくるわけです。ところが、
20年前に来た、我が師と仰ぐ先輩の宣教師が、日本の宗教に寝返っています。そ
れがなぜかと言うと、村人達が、目の前で、有らん限りの残酷な殺され方をするの
です。20年前に改宗した、その宣教師も、「奇跡を見せて下さい」と神に願いま
す。けれども、神は何にも答えてくれない。それで「沈黙」という題になるのです。
そこで、もしキリストならば、この人達を助けるために踏み絵を踏むだろうと、最
終的には踏むわけです。私は、それを見せて頂いて、何と残酷な布教だろうかと思
いました。
  どの宗教にも、迫害は付き物です。ところが、教祖様の、宗教迫害に対するご態
度、受けられ方です。教祖様なら、そうやって布教をなさる。けれども、「いかん」
と言われるなら、黙って帰って見えてると思います。だから、成り行きの中で道が
開けていくということになると、そんな殉教は、金光教の中にはあってはならない
と思うのです。教祖様は、「時節を待たず苦をすること」と教えておられます。だ
から、成り行きを尊んでいくことになれば、核分裂的な改革でなく、核融合的な改
革になりますよ。ただ、そのキリスト教に学ぶとするなら、私達の一心の出し様の
甘さです。それほどの情熱を持って、紙の裏表を貫くことが出来る、「あつっ」と
いうような信心が要ると思います。
 例えば、朝起き一つ出来ずに、成り行きは尊べません。初代は、信心を進めてい
くカリキュラムを「日参・聴教・信行・心行・家業の行」と、見事に説かれていま
す。家業の行が、レベル5で、一番難しいのです。その手始めの日参が出来ずに、
朝起きが出来ずに、家業の行が出来るはずがないです。今日は一つ、「あつっ」と
いう火種を、皆さんに頂いて頂きたいと思います。そして、あんなキリスト教のよ
うに苛酷なことではなくて、「成り行きを頂く」この一本で、この天地と共に開い
ていける助かり方、こんな開け方は他にないです。金光教は、それこそ神様が待ち
に待たれた宗教です。この成り行きを尊ぶということは、神様の心を心とする生き
方です。それこそ殉教してくれとか、何千万何百万お供えしてくれという、そんな
神様じゃないです。この神様は、ただ一つ「成り行きを尊んで下さい」という神様
です。成り行きが生命と定まる、この一心を出すことが、これからの合楽の大使命
になると思います。 どうぞ。


平成11年12月3日 朝の御理解(親先生)


御理解第8節
 子供の中にくずの子があれば、それがかわいいのが親の心じゃ。不信心者ほど神
  はかわいい。信心しておかげを受けてくれよ。


屑の子の自覚は有難いが、神さまが御覧になっての屑の子ハ困ります。
信心はしておっても教えも聞かず、聞いても守らず行ぜずでは、親の言うことを聞
かぬも同じですから親を悲しませることになります。
「心をみつめ教えを行ずる」と頂きました。       (昭55・7・30)


 お天気でも、晴れの日もあれば、雨の日もありますように、私達の心というもの
も、浮き浮きしたり、沈んだり、ということがあります。その心が浮き浮きした時
も有り難いんですが、心が沈むような時も、そういう状況でなければ感じられない
世界というものがあります。
 これは、もう何年前でしょうか。教祖生誕祭の日の朝方、「ピアノの稽古をする
のに、白い鍵盤だけでは、本当の音楽は楽しめないよ。黒い鍵盤を弾きこなせて初
めて、十全の音楽が楽しめるようになる」という意味のことを頂いて、目を覚まし
たことがあります。確かに、そうだろうと思います。けれども、心が落ち込んだ時
には、なかなか有り難くは頂けないですね。例えば、今日の御理解を頂きます時に、
この御理解の背景には、正神様の問題を連想するわけです。正神様が、たびたび無
心に来られます。教祖様が、言うて聞かせても、言うて聞かせても分からない。で
すから、「何と分からない子供だろう」「何とまあ、屑の子だろう」と思われたこ
とでしょう。
 昨日、秋吉の先生が、この正神様に関することを全部拾い上げておりました。こ
れは一遍、皆さんもやってみたらいいと思います。私が、この『お知らせ事覚帳』
に載っている正神様の問題を全部、拾い出したことがあるんです。それこそ「もう、
またですか」と、人事ながら、私が思いたくなるぐらいの回数です。教祖様も「も
う今度きりだぞ。もう今度したら、それこそ犬猫同然に扱うぞ」というようなこと
も言われるのですが、1カ月後ぐらいに、また来ちゃる。そういうお子様を持ちな
がら、教祖様が、神様に向かわれる。その時のみ教えですよ。「どうぞ信心してお
かげを受けてくれよ」というのは、それこそ親の悲痛な思い、願いでしょう。
  そこで、正神様が帰られた後に、教祖様が、どう思われたんだろう。ですから、
ここなんです。今、頂いております、「家業の行は金光教独自のもので、お釈迦様
もキリスト様も説き得ない」というようなことが、ここにあるわけです。そうでし
ょうが。家庭を捨て、または、そういう家庭を持たないということであれば、そう
いう煩わしい問題に関らなくて済みますよ。例えば、子供が病気で苦しんでおる姿
とか、正神様のような問題もないわけです。ところが、その問題にこそ、煩わしい
その問題を通して、本当は、信心の力が頂けるのです。けれども、教祖様が、正神
様の問題に際して、どういう頂き方をされたのかについては、この『覚帳』『覚書』
には書かれてないんですね。ですから、こういう時に、大坪総一郎という方の下敷
きを通して、「初代が私達に、どう接して下さっただろうか」と見てみると、教祖
様の頂き方が見えてくるんですね。
 今思ってみると、どれほど初代の心をかきむしっただろうかと、本当に慙愧の思
いに堪えません。この話はよくしますが、私が横着にも、それこそ初代が命のよう
に大事にしておられた朝の御祈念を、平気で遅れる。初代が「これは、私の信心を
切り刻むようなことだよ」と言われてました。けれども、申し訳ないことながら、
私は、ヌラーと聞いてました。そして、そういう調子で、私が朝の御祈念を致しま
す。それこそ蛙が座っておるような姿ですよね。頭を下げん。その時に初代が、こ
こ(御結界)からご覧になって、「なんと横着な御祈念をするか」と思われます。
けれどもその次の瞬間に、「勝彦じゃない。あの姿が、私の姿なんだ」と。いや、
もう徹底的に、そういう頂き方でしたよ、初代という方は。私は、教祖様も同じだ
ろう、と思います。そういう頂き方をしながら、教祖様は、それを自分の肥料にし
たり、自分の力にしたり、それによって改まっていかれたお方です。ですから、そ
の煩わしい問題こそが、本当は凄い財産であり、その黒鍵なんです。自分の思い通
りになる、その白い鍵盤だけを弾くのじゃなくてですね。ですから、お互いが、心
が沈むような時、本気で「見ること見ること自分を見ること」です。そこに、前の
ミニ御理解にありますように、初代は、「一心が足りない、真心が足りない、実意
が熱意が、かぞえれば限りなく足りないずくめの私を見いだし」と、そういう反省
をしていかれたんじゃないでしょうか。
 昨日、ある事から、何か心が動揺するんですね。そんな時は、「何でこんなに不
安なんだろう」「何でこんなに寂しいんだろう」「何でこんなに腹立たしいのだろ
う」ということだけにとどめずに、「これは何だろう」と思うてみることです。そ
うしてみた時に、私が、その人のあらだけしか見てない、ということに、昨日、気
付かせて頂きました。そうしたら、もう心がどどらないんですね。そういう時には
必ず、神様が、「ここを分かってくれよ」とか、「もう一回り大きくなれよ」とい
うようなメッセージを下さっているのです。そういう意味で、今日は一つ、いろん
な浮き沈みもありましょうけれども、その沈んだ時にこそ、何とも言えない曲が弾
けるようなおかげを頂きたいと思いますね。 どうぞ。


平成11年12月2日 朝の御理解(親先生)


御理解第17節 神の綱が切れたというが、神は切らぬ。氏子から切るな。


 「朝顔ハ 馬鹿な花だよ 根もない竹に 命までもと からみつく」
根もないものにすがっておるものを嘲笑した唄でしょう。信心を頂いていても、
「神も仏もあるものか」というような事に出会う場合もありますが「根のあるも
の」、生きた働きのある信心を頂いていますと、どんなに失意の底にありましても、
その前後に必ず生きた神の働きに会うことが出来ます。おかげで神の綱を切ること
なく信心を続けることが出来ます。問題ハ入信の時、生きたものがあるかないかを
確かめることが大事です。               (昭50・7・31)


 信心とは、信じる心と書くわけですから、問題は、何を信じるのかです。けれど
も、私は本当に、最近、テレビでもいろいろ報道されていますが、ひどい宗教があ
るもんだなあ、と思うんですね。あれでは、いよいよ宗教に対する疑念と言いまし
ょうか、「だから信心は好かん」という人達が多くなってくることだろうなあ、と
思います。
 ですから、問題は、お互いが信心に何を求めるかなんです。まず、99パーセン
トがおかげを求めますね。そこに、「溺れる者は藁をも掴む」と言いますけれども、
そういうことになってしまうのです。藁を掴んで浮き上がれますか。神様にしても、
これまでは、姿があるやらないやら、分からない神様を信じてきただけなのです。
 私は、最近、しきりに思うのです。一神教の場合、他の神様を徹底的に否定して
いくんですね。いわゆる偶像崇拝を破壊していくのです。ところが、まさに、今日
的な偶像崇拝というものがあります。例えば、お金があれば幸せになれるとか、家
庭があれば幸せになれるとか、これなども今日的な偶像崇拝と言ってもいいと思い
ますね。
 この間の2歳の子供さんが殺された事件は、教育さえしておけば、この子が幸せ
になれるという偶像でしょう。そういうものが、今ことごとく壊れていっているわ
けです。そして、21世紀に何を信じていいか分からないんです。何を信じてどこ
に行っていいか分からないというのが、今の時代という気がします。
 ですから、今の私が、これしかないと思いますことが、「成り行き以外はすべて
偶像崇拝だ」ということです。今までの信仰観念、または神様観念、または道徳観
念を一遍壊さなければ、本当は合楽理念が見えません。教祖様の信心の凄さが見え
ないと思うんです。例えば、信心とは、実直であれ、素直であれ、辛抱強くあれ、
というようなものも、一遍壊して頂かなければ、「成り行きが最高最善だ」とは、
見えてきません。そして、これならば、誰でもが実験実証できるんです。これは、
あるやらないやら分からないような神様ではないのです。
 昨日、イスラム教のコーランを持ってきてくれましたので、飛び飛びですけれど
も、読ませて頂きました。中には、私達には理解できないようなこともあるんです
ね。ですから、例えば、宗教を分かるというならば、その時代背景が分からなけれ
ば、本当にはその宗教が分からないだろうと思うんです。
 例えば2千年前、その当時の社会状況においては、物を盗ったり、人を殺したり、
というようなことが、当たり前の時代なんです。だから、人を殺してはならないと
か、姦淫するなかれとか、そういった戒めが、共同生活の中に必要な時代なんです。
ですから、そういうことに対する教えが多いのも、ある意味では当然でしょうね。
ですから、古めかしい宗教ですよ。それが、今の世界宗教になっているわけです。
 幹三郎でしたか、科学とか、医学または教育は、確かに進歩し続けておりますけ
れども、宗教だけは全然進歩していない、と言っていましたが、本当に、驚くべき
ことですよ。なぜかと言うと、結局、宗教に対して人々の求め方が、やっぱりおか
げだけしか求めないからじゃないか、という感じがするんですね。
 ですから、これは間違いなく、お釈迦様にしても、キリスト様にしても、マホメ
ット様にしても、その底流で、本当に伝えたかったことは違うと思います。本当に
伝えたかったことは、言葉にすれば、成り行きですよ。例えば、イスラム教的に言
うなら、運命こそ、神が与えたものなんだ、ということでしょう。イスラム教では、
「神は絶対唯一であり、神は偉大なり」と唱えますね。だから、マホメット様の言
いたいことは、この天地宇宙の働きをもって神とするということじゃないでしょう
か。そうしてみると、この成り行きこそ、絶対唯一であり、成り行きこそ偉大なり
ということになりはしませんか。
 教祖様にしても初代にしても、神も仏もあるものか、というようなところを通ら
れました。けれども、その度毎に、神様との仲がぐっと近付いていかれるわけです。
例えば、教祖様は、七墓を築かれます。その時でも、神を神と用いるというように、
だんだん神様への接近度を高められて、いよいよ「金神は悪神・邪神じゃない。そ
れこそ助けずにはおかない、氏子可愛いの御一念の神様である」と分かられ、明治
6年に、「何事もみな天地乃神の差し向け、びっくりということもあるぞ」という
ような神様のお働きを明らかにしていかれたように、階段を一段一段上がるように
して、この神様と出会うていかれるのです。
 今日は、何を根にして生きているかということを、皆さんに自問自答して頂かな
ければならないと思います。 どうぞ。


平成11年12月1日 月例祭御教話(親先生)


 日が経つにつれまして、私の中で、本当に、こんな金光教があったのだろうかと
いう思いが、募ってきております。初代が、前代未聞の金光教とか、教祖様は前人
未踏の道を顕された、などと言われますけれども、何を以てそうおっしゃるのか、
というようなことを、どうでも分かってもらわなければ相済まない、というような
思いが募ってくるわけです。
 それと申しますのも、29日には、初代の教え子達ばかりで、ああいう有り難い
お祭りが仕えられました。そして、祭場に参ります時に、私も初めて見たんですが、
初代の、あの破れ鞄に破れ靴、それに背広を拝ませて頂きながら、あれは、初代が
昭和24年ぐらいの、修行の一番過酷な時期ですね。この大坪さんが、このように
なるとは、果たして誰が思ったでしょうか。また、初代自身も、それこそ人が気違
いだと言うようなあの時代には、夢にも思えなかったでしょう。その大坪総一郎お
一人の信心が、こういう形になり、しかも今、ブラジル、シカゴというように、世
界に散らばろうとしておるのです。そういう教え子達によりまして、お祭りが仕え
られる、それだけでも、感動でございました。
 けれども、実はこのお祭りを仕えますには、大変な手落ちがあったんです。それ
で、お祭りが終わったら、すぐお詫びにやらせて頂こうということで、私と家内と、
そして末永先生と、総代の秋永英治君と、親教会、久留米教会、福岡教会にやらせ
て頂きました。まあ結果的には、それぞれのお教会で、見事なお繰り合わせを頂い
て、最後に福岡教会にやらせて頂いたら、本当に腹の大きいお方だと思いました。
「そんなこと、問題にせんでよかが」と言うて頂きました。
  それで、その足で、カトリックの司祭様という方にも会わせて頂きました。もう
本当になんにも言えません。本当に拝みたいようなお方です。聖職者というのは、
こういう方を言うのだろうかというようなお方でした。そして、帰る間際に、家内
が最後に、もう止むに止まれぬ思いで「先生、もしあなたにお子さんがおられるな
らば、後を継がせますか」と訊いたんです。しばらく絶句なさいました。祈られま
したね。そして言葉を濁されました。そして帰ってまいりましてから、その夜、真
っ暗な部屋で目をつぶった瞬間に、先生の顔を思い出したんです。もう切なくて切
なくて、私は寝めなかったんです。イエス様は、結婚しちゃいけないとはおっしゃ
ってないのです。これは、4世紀に、バチカンで決められた決定事項なんだそうで
す。それから千何百年も、そのことを守り通している人達が、カトリックの中には
たくさんおられるのです。どういう人生なんだ、と思いますよ。
  そういう思いで、今朝、私は教典を開かせて頂きました。その時頂いたミニ御理
解の中に、「楽をしようには楽ハなく、楽ハせんぞの信心に極楽がある」とありま
す。不真面目な人は知りませんよ。けれども、真面目に道を求めたい、神に近付き
たいというなら、やっぱり禁欲主義になりますよ。そして問題は、次の御理解です。
「清く生きようとするから難しい。此の身このまま助けて下さる神様である。すな
わち、即身成仏を願う信心である」とあります。私は、本当に、教祖様が、初代が、
生身の人間が生身を持ちながら助かっていける道を残して下さったことの尊さ、有
り難さを思います。それは、私のようなだらしのない人間が、助かる道なんです。
そうは申しましても、ここが本当に微妙なところでございますが、もう何をしても
いいんだ、というのではありません。「楽をしようには楽ハなく、楽ハせんぞの信
心に極楽がある」という、このブレーキだけは、皆さん、信心には、要るんじゃあ
りませんでしょうか。そうでなければ、人間というのはどこまででもだらしなくな
ってまいります。そして、私が思いましたことは、例えば、家庭を持つということ
は、いろんな煩わしい問題があります。ところがその煩わしいその問題にこそ、心
を研く元があるんじゃありませんか。そのいやな問題が、私を育てて下さる材料で
はありませんか。それが、家業の行ということです。そして、確かにその家業の行
でお徳が頂ける道なのです。
 問題は、今まで、私達自身が、家業の行の内容が分かってなかったということで
す。例えば親鸞様も、煩悩に負けて、奥さんを持たれたわけです。ですから、私が
住む場所はもう地獄以外にない、と諦められたんです。だから、親鸞様が、家業の
行こそ、私達の最高の修行場であり、その煩わしい問題を通して、私達が助かって
いく手立てがあるということを、もしお分かりになったならば、泣いて喜ばれるの
ではないでしょうか。キリスト教のように、茨の道を歩かなければ助からんという
なら、私達は、信心が出来ていません。けれども、教祖様は、家業の行一本で、有
り難く、楽しく、愉快に信心が出来る道を顕されました。それを教祖様が余りにも
平易に説いておられますので、私達が気付かなかったのです。教祖様の通られた道、
明らかになさった道は、前代未聞の金光教です。ですから、どうでも皆さんに、ど
こが前代未聞なのかということをはっきり分かって頂きたいと思います。
  金光教は、21世紀の宗教です。もしも、キリスト教のように茨の道を通らなけ
れば、21世紀の道が開けないというなら、21世紀は、もう暗澹たるものですよ。
また、皆さん夕刊をご覧になったでしょうか。1面に法の華のことが出ていました。
これも面白い現象ですね。こういう偽物は、21世紀には、絶対生き残れませんよ。
そういう意味で、21世紀というのは、普遍的な助かりを示せる宗教でなければ、
生き残れない時代になるということを、同時に思わせて頂きますね。 どうぞ。



平成11年12月1日 朝の御理解(親先生) 御理解第38節  垢離を取るというが、体の垢離を取るよりは、心のこりを取って信心せよ。  今日、開きましたのがここですが、私の目に留まりましたのは、右のページの御 理解でしたので、そちらを読みます。  花の生命は短くて 苦しきことのみ多かりき 信心がないなら、この世は苦の世、苦の世界。信心しても御利益を追うのみの信心 なら、やはり修行がつらい。 信心を求めての苦労なら、力を受け徳が身について行くのがわかるようになるから、 楽しい苦労である。これが真実の修行になる。 楽をしようには楽ハなく、楽ハせんぞの信心に極楽がある。 清く生きようとするから難しい。此の身このまま助けて下さる神様である。すなわ ち、即身成仏を願う信心である。            (昭51・7・20)  先日は、あのような形で報徳祭に併せて初代の5年の式年祭が執り行われました。 思えば思うほど、初代の残して下さった遺産のちょっと一部を掘り起こしただけと いうのが本当かも分かりません。もっともっと掘り起こしていけば、そこに大変な 人類の助かる元が出てくるんだろうと思うのです。  けれども、今度のこの式年祭を迎えるに当たりましては、合楽にとっては大変な 失態を演じております。それと申しますのも、告別式、一年祭、三年祭と、福岡教 会の吉木先生を祭主に頂き、久留米教会の石橋先生に副祭主をお願いしてきたわけ です。ところが、報徳祭と式年祭を併せるということになりますと、どうしても変 形のお祭りになるわけです。私ども合楽信奉者にとりましては、報徳というならば、 まず初代で、「初代あっての私」という思いが強いですから、別に抵抗がないかも 分かりませんけれども、普通で言うなら、神様事と霊祭とを一緒にするようなこと ですからね。ですから、三年祭の時に、いろんな問題がありましたから、今回は、 もう内々の先生達、しかも初代の、直接教導を受けた愛弟子、または関わりのある 先生達でお祭りを仕えて頂いたら、問題はなかろうというようなことで、進めてき たわけです。  そうしましたら、先日ある教会の大祭に栄四郎が行きましたら、「あんたのとこ ろはどうなっとるんだ」と。福岡教会や久留米教会では、お祭りを仕える心構えを しておられるわけです。それを聞きまして、何とうかつなことか、何という実意の ないことであったかと思い、お祭りが終りましたら、私が、お礼を兼ねてお詫びに、 親教会、久留米教会、福岡教会にやらせて頂こう、と心に決めさせて頂きまして、 実は昨日やらせて頂いたわけです。本当に、案ずるより産むが易しということです ね。福岡の吉木先生に致しましても、心良う、お許し頂いて、その腹の大きさと言 いましょうか、本当に感服させて頂きました。  そして、その足で、カトリックの司祭の方に会わせて頂きました。本当に聖職者 というなら、こういう方だろうというようなお方でした。18の時に日本に渡って 見えて、半世紀以上日本に住まわれて、結婚もなさらず、家庭を持たないで、それ こそキリスト一筋に御用しておられるのです。ところが、私が寝む前に明かりを消 した時に、その司祭様のことを思うたら、何とも切ない思いに襲われたのです。皆 さん、思うて見て下さい。キリスト様がそうおっしゃったんですか。キリスト没後 4世紀ぐらいに、バチカンで、聖職者は妻帯してはならないというようなことが、 取り決めされたんだそうです。そして、延々とそれが続いているのです。そして、 その司祭様が、言われるんですね。家庭を持ちますと、どうしても煩わしい問題を 伴いますと。それよりも、一途に神様の御用をしたいと。ですから、尊い修行です よ。ところが皆さん、家業の行というのは、家庭のその煩わしい問題を通して改ま り、それを力にしていく、言うなら、神に一歩一歩近付いて行けるのです。何とい う道なんだろう、この家業の行というのは。キリスト教のような茨の道を歩まなく ても、この家業の行で、神になっていけるほどの内容があるのです。  そして最後に、家内が司祭様に、「もしあなたにお子さんがおありでしたら、あ とを継がせますか」と尋ねました。暫く物が出ませんでしたよ。そういう意味合い で、本当に宗教革命が要る、と思います。初代は、「楽をしようには楽はなく、楽 はせんぞの信心に極楽がある」と。だから、これだけなら、険しい道になります。 だからと言って、「清く生きようとするから難しい」ことになります。ここのとこ ろを、よくよく一つ、心に信心決定してのものでなくてはなりません。そうなりま した時に、本当に家業の行の中に、有り難く、楽しく、愉快に信心していける、こ ういう道を世界の宗教者の人達に分かってもらったら、と思います。そういう道を もっと私達が明らかにしていく責任があります。  家業を通して、私がどれだけ研いていけるのか、どれだけ改まっていけるのか、 お互いが、本気でそこに焦点を置いて、こういう助かり方がありますよと、示して いけるようなおかげを頂きたい。それが、この度の初代の5年の式年祭を通して、 初代が私に願われました、「このような教祖をなぜ現さないのか」ということです。 私は改めて、それを本当に現さなければならない、現したい、という思いが、いよ いよ強うならせて頂きました。 どうぞ。 <合楽教会御理解目次へ戻る> <日本語表紙へ戻る> --------------------------------------------------------------------------