平成11年11月28日 和賀心デー御理解(親先生)
御理解第45節
世に、三宝様踏むな、三宝様踏むと目がつぶれるというが、三宝様は実るほどか
がむ。人間は、身代ができたり、先生と言われるようになると、頭をさげること
を忘れる。神信心して身に徳がつくほど、かがんで通れ。
とかく、出るくぎは打たれる。よく、頭を打つというが、天で頭を打つのが一番
恐ろしい。天は高いから頭を打つことはあるまいと思おうけれど、大声で叱った
り手を振りあげたりすることはないが、油断をすな。慢心が出ると、おかげを取
りはずすぞ。
難儀という鎧兜をつけている時は、身動きも出来ず頭も上げられぬが、少し形のお
かげをうけると、すぐ思いあがり頭がさげられぬ。人間の浅はかな悲しい性である。
徳がうけたいものである。
真の徳が身につけば、自ずと辞をひくうせねばおられぬ。
身に徳をうけてゆく為に、いよいよ成行きを大切に、三宝様(世に言う大切なもの、
神さまの働きそのもの)をおろそかにせず、自分の足元をみつめて暮らしたいもの
である。 (昭45・7・27)
明日、初代がご帰幽になられまして、5年という歳月を迎えさせて頂きます。そ
ういう意味で、初代に、これからの合楽の信心姿勢というものをお願いさせて頂い
て、教典を開かせて頂きました。そしたら、この御理解を頂きました。これは、初
めてだったと思うんですが、初代が、古賀病院に、私たち兄弟を呼び寄せられまし
て、大切なことを神様からいろいろ頂いたから、聞いておいてくれと言うて、お話
し下さったわけです。これは、皆さんの中でも、信心の一つの基調にならなければ
ならないものだと思うんですね。
「金光大神の本当の道の栄え、というものがなければならない。そういう、おか
げの『拠点』というか、それが合楽に現れた、ということ。合楽に、そのごヒレイ
が輝いてきたということは、ただごとではない。合楽ほどに足ろうた、おかげのバ
ランスのとれた教会はないだろう、と思う。また、教えそのものが、金光大神の教
えの神髄」と。
成り行きの中で、最近、いろんな宗教を勉強させて頂きながら、「成り行きは神
の働き」ということは、間違いなく、宗教の神髄だ、と分からせて頂いております。
天地に通う程の宗祖教祖なら、すべてここに帰ってきたんです。「天地金乃神が真
実に金光大神に打ち明けられた、その神髄を合楽は説いている。ただ、それを現し
得ないでおる」と仰っています。だから、あんた達が、どうでも現してくれんの、
と仰るわけです。そして、最後に、現す姿勢として、「その構えとか、姿勢の上に
現れてくるものは、『謙虚』だと、神様がおっしゃる」と。そして、その謙虚とい
うことを字引で引きました時に、第2版の広辞苑には「自己の弱小・無力・罪業に
対する深刻な自覚から、神の意志に飽くまで従順になろうとする心」とあったので
す。
昨日は、小郡で、大学の教授をしておられ、しかも牧師の方が、「親鸞とキリス
ト教」というテーマで、講演をされました。講演が終った後に、面会したいという
申し出をしてたんです。ところが、そんな時間はないということでしたので、私た
ちは、そのままで、ジャンバー姿で、行ったわけです。ところが、会って下さるこ
とになりました。だから、最初は、ちょっと胡散臭そうな感じでした。お話をだん
だんしていましたら、何ということはない、15分のはずが、結局1時間余り、お
互い、立ち辛い感じで、お話しさせて頂き、聞かせても頂きました。「先生、これ
から、21世紀に布教するキリスト教だとするならば、人間キリストが、神になら
れたというキリストをあらわされたらどうですか」。そんな話までさせて頂く雰囲
気になりました。ところが、これだけは、譲られないんですね。いや、神なんだと。
現代の科学とか、人間の小さな考えに、入るような宗教じゃありません、と仰るわ
けです。そりゃそうですよ。私たちも、長年、理屈を越えた霊験奇跡も見てきまし
た。けれども、それが神様のすべてではないです。初代は、合楽理念は、人間の最
高の考えの範疇に入ると仰るんです。人間の理性というものを、甘く見ちゃいけま
せん。
私は、改めて、教祖様の肖像画を見せて頂いて、このような教祖を頂いているこ
とのお礼をしみじみと申しました。そういうことを恵城に話しましたら、恵城が面
白いこと言うんです。「お父さんがもし、キリスト教の教会に生まれていたら、キ
リスト教の信心をしましたか」って。私は、してないですね。そして、改めて、初
代なかりせば、御理念なかりせば、信心のできなかった男だなあ、と思うんです。
そうなりました時に、本当に、謙虚になれじゃなくて、ならざるを得ません。
今の私の中に、積み上げられてきておるもの、それは、結論しますと、金光教の
前代未聞さです。いろんな宗教が、なぜ、いろんな宗派に分かれたのか。それは、
その宗教の本筋が分からないからです。ところが、初代は合楽理念という形で、き
っちり、金光教の信心の神髄はここだと、説いておられるのです。それは、誰でも
行じられるということと、絶対の助かりの道ということです。「宗教とは何か」に
なったら、この二つになってくるんです。そういう金光教だ、と改めて再確認させ
て頂きました。そういうこもごもの思いを込めて、明日の初代の5年の式年祭に併
せての報徳祭を迎えさせて頂き、謙虚な姿勢で、初代を現したい、金光教を現した
いという願いを持たせて頂いております。 どうぞ。
平成11年11月21日 和賀心デー御理解(親先生)
御理解第29節
桜の花の信心より、梅の花の信心をせよ。桜の花は早う散る。梅の花は苦労して
おるから長う散らぬ。
形のおかげを願うだけの信心は桜の花の信心。
心の助かりを願っての信心に御神徳が受けられる。梅の花の信心をすれば花も実も
あるおかげが頂ける。
痒いから掻くのは桜の花の信心。痒いけれどもじっと辛抱する、これが梅の花の信
心。辛抱しているうちに徳がうけられる。
霊徳はさくらの花の信心。
神徳はうめの花の信心。
(昭51・7・12)
こちらに参ります前にテレビを見ておりましたら、今、盛んに問題になってます、
なんか、重病の方をホテルの一室に閉じ込めて、結局亡くなられる。ところが、亡
くなっていないんだと言って、何カ月も遺体を放置しておったということなんだそ
うですね。ひげを生やしたおっちゃまが出てこられ、その人が言うことが全部定説
だそうです。「この遺体は、6カ月間放置しとけば、生き返る」。「そういう前例
は、あるんですか」。「これは、定説です」というようなことです。現代の世の中
にあって、どうして、ああいう愚にもつかないことを信じられるのだろう、と思い
ますね。けれども、考えてみたら、溺れる者は藁をも掴むと言いますが、本当に、
どうしようもない心の状態の時には、藁でもしがみついてしまうのです。この恐さ
ですよ。
どうですか、藁で救われるでしょうか。藁にも縋る思いと言いますけれども、本
当に、人の弱みに付け込むんだなあ、という思いで出て来ましたら、今日の御理解
が、これなんです。お互いが、心が真っ暗の時、難儀な時というのは、誰でもそう
なんですけれども、本当に、愚にもつかないことに惑わされ、蛍の光にでもついて
行きたい、藁をも縋るような気持ちになりましょう。けれども、私は、光昭のよう
な御理解を頂きましたが、「藁に縋るな 和楽(わら)に縋れ」ですよ。そういう
時に、「和賀心にならせて頂こう」と、和楽(わら)に縋ることです。
皆さんご覧になったでしょうか。今、成り行きの中で、「イスラム潮流」という
番組があっております。これは、合楽のために、NHKが放映して下さってるとし
か思えません。私が、これから、イスラム教も仏教も勉強したいと思い、それで、
栄四郎に、「お前、イスラム教をやってくれ」と頼みました。ところが、あの人は、
本を読むのが嫌いですから、「映画か何かがあると見ますけど」と言ってましたら、
本当に放映が始まったんですから。そして、イスラム教の開祖のマホメットの映画
は、いくら探しても、ないんです。そしたら、この頃、見付かったんです。だから、
このマホメットの生涯の映画と、このNHKが放映しております、この「イスラム
潮流」で、見事に、イスラム教を信仰する人たちの生活、有り様というものを描い
てくれてます。そういう一つの成り行きの中で、イスラム教のお勉強をさせて頂い
ております。けれども、何と言うんでしょうか、初代がよく「金光教の教祖が説か
れた教えというのは、釈迦もキリストも説き得ない、または、前代未聞の宗教だ」
ということを仰っていましたが、私が、いろんな宗教を勉強させて頂いて、本当に
教祖様しか説き得ないことだなあ、ということが、いよいよ見えてきました。例え
ば、今月の1日に頂きましたのは、『此方の行は水や火の行ではない。家業の業ぞ』
という御理解でしたよね。お釈迦様でも、キリスト様でも、家庭を捨ててある方で
す。家庭を持ってない方です。だから、家業の行は説き得ないです。そうなりまし
た時に、この教祖様の説かれた、このご信心のご内容というものは、とうてい「藁
をも掴む」というような話ではないのです。
これは、イスラム教だけではありませんが、例えばユダヤ教でもそうですし、キ
リスト教でもその歴史があるんですけれども、徹底的に、偶像崇拝を嫌うんですね。
この偶像崇拝というものは、皆さんご存知でしょうか。例えば、昔の原始宗教では、
木を拝んだり、山を拝んだり、石を拝んだりしていました。今でもあるでしょう。
太宰府さんなどは、菅原道真を拝んでいるんです。また、加藤清正を拝んだり、狐
さんを拝んだりしているじゃありませんか。そういうのを偶像崇拝と言うんだそう
です。それを徹底的に、破壊するんですね。だから、これは、何だろうか、という
ような思いがあったんです。けれども、考えてみたら、今日の偶像崇拝を皆さんし
てませんか。お医者さんが言うことが本当のこととか、あの人に縋る、お金に縋る、
物に縋る、子供に縋る、全部、今日の偶像崇拝です。
四代金光様のお歌に、「たよりなきものを たよりにする故の この頼りなき心
なるかも」とあります。ですから、そういう意味合いで、頼りなきものを頼ってお
る、その証拠は、心が動揺するということです。皆さん本気で一つ、これから、成
り行きに縋ろうと思ってみて下さい。心が平静になりますよ。心が落ち着きますよ。
本当のことだからです。
今日のこの御理解を頂いて、改めて、お互いは藁に縋るようなことなく、本当に
頼りになるものに縋っていけることを思います。しかも、これは皆さんが実験でき
るんですから。そういう実験をいよいよ積み重ねて頂く以外にないなと、思わせて
頂きます。 どうぞ。
平成11年11月14日 和賀心デー御理解(親先生)
御理解第36節
日本国中のあらゆる神を、みな信心すると言うが、それはあまりの信心じゃ。人
に物を頼むにも、一人に任すと、その人が力を入れて世話をしてくれるが、多く
の人に頼めば、相談に暮れて物事はかどらず。大工を雇うても、棟梁がなければ
ならぬ。草木でも芯というたら一つじゃ。神信心もこの一心を出すと、すぐおか
げが受けられる。
道は一筋
頼むはこの方御一人
『この一心』とは
信心が生命と定まること (昭45・7・18)
昨日の十三日会を頂いて、「成り行きの比礼が見え出した」ということを言いま
すけれども、本当に、皆さんが、的確に、そういう成り行きを感じていかれてるの
を実感しました。その十三日会が終っての私の実感というのは、この成り行き一心
ですね。いろんな一心の定め方があるんでしょうけれども、この成り行きに一心に
なって頂けば、ここで言われる、「この一心を出すと、すぐおかげが受けられる」
と確信します。
今日、御結界につかせて頂いたら、宮崎さん、南米で新たに布教させて頂いてお
ります宮崎先生のお兄さんに当たる方なんですが、お届けに来ました。その中で、
ブラジルの先生達にいろいろお世話になったから、食事にでも案内しようというこ
とで、昨日、まあ、接待したわけですね。そうしたら、そこの料理屋さんに入ると、
誰々様、誰々様というのが書いてあるわけですね。それが、宮崎さんのを挟んで、
大坪さん、宮崎さん、大坪さん、宮崎さんだったそうです。そんなふうに大坪さん
に囲まれて、そして部屋に入ったら、13号室であったというわけです。
次の方の、ご婦人のお届けでは、今、ドラマチックな日々を送らせて頂いており
ますと言われるんですね。私は、この成り行き生活というのは、本当にドラマチッ
クだなあ、と思います。そうしましたら、その次に、稲垣君がお届けに来ました。
今まで現場での仕事だったのが、それこそ青天の霹靂で、事務の方にかえられてる
わけです。それで「浩通さん、ドラマチックだね」と申したことでした。本当にド
ラマチックですよ、皆さん。この成り行きに基づいての生活というのは、「今日は、
どんな成り行きを下さるだろうか」と思うと、本当にわくわくどきどきするような
毎日が頂けるのです。
それだからと言って、そんないいことばっかりかと言うと、そうではありません
ね。今度は、ある方なんか、息子さんが、突然「俺は大阪に行ってくる」と言って、
ちょっとした大金を持って、大阪に行ったというようなお届けもあるわけです。家
業の行の中に、そういう意味合いで、いろんな成り行きがあります。ですから、こ
れも成り行きとして、有り難く頂くということは、なかなか出来ないと思うんです
ね。だから、その方に申し上げたんです。「息子さんのそのことが、直ぐには有り
難く頂けなくても、これは神様のどういうご都合だろうか、というアンテナだけは、
立てなければなりません。そうすれば必ず、『こういうことだったんですか』と、
神様の思いが分かるようになりますから」と。
例えば、昨日の小林さんのいびきの話ですよね。初めは、有り難く頂けなかった
けれども、じっと耳をそばだてていびきを聞いていると、そのいびきさんが、「こ
こを改まってくれ。ここを改まってくれ」というふうに、聞こえてきた、というの
です。本当に、成り行きを尊ぶ稽古の中には、失敗もするでしょう、頂けないとい
うこともありましょう。けれども、「これは、神様のどういうご都合だったんでし
ょうか」と求め続けていくことです。
今日のミニ御理解をこういうふうに頂いて下されば、もう一番ぴったりくるんで
す。
道は一筋
頼むは御成り行き様
この一心とは
成り行きが生命と定まること
ですから、私が今、申し上げているのは、この成り行きが、お互いの生活原理に
なるところまでは頂いてもらいたい、ということです。成り行きをはずしたらちょ
っと動けんね、というところまでは、確立して頂きたい、と思います。本当に、こ
の一心を出すと、直ぐおかげが受けられるという体験を、一つそれぞれが頂いて下
さって、「成り行きの比礼が見え出した」というところまでは、成り行きを貫いて
みたいと思いますね。 どうぞ。
平成11年11月7日 和賀心デー御理解(親先生)
御理解第29節
桜の花の信心より、梅の花の信心をせよ。桜の花は早う散る。梅の花は苦労して
おるから長う散らぬ。
桜の花のような、はなやかなおかげも受けたい。
それには、いさぎよい信心が出来ねばなりません。その内容としての梅の花の信心
辛抱こそ大切です。
合楽の信心を一言にして言うなら
うめの香りを さくらにもたせ しだれ柳に 咲かせたい
梅の辛抱、桜の華やかさ、いさぎよさ、柳の素直にまかせる心。
この三つの要素が合楽で受けている信心とおかげだと思う。
(昭45・7・11)
このミニ御理解でおっしゃってますように、この足ろうた信心、そして足ろうた
おかげというのは、確かに合楽の信心の一つの特色だと思うんです。これは、本当
は教祖金光大神様のご信心のご内容でもあるわけですから、結局、教祖様のご信心
を初代が伝承して下さったと思います。
私は、合楽ほど、こんなに華やかと言えば華やかで、真善美足ろうた教会を知り
ません。だから、よく初代が、譬え話に、お祭りでも、祭員の先生も、楽人さんも、
お供え物も整っている、そして参拝者も丁度良いお参りだ、とおっしゃっていまし
た。以前、ある、お教会にお参りさせて頂きましたら、教会の歴史が古いもんです
から、楽人さんだけでも、十何人出てこられまして、祭員も手続きの先生で、内殿
一杯にお仕えになりましたが、お参りが、5、6人という感じなんです。それでは、
どこか、バランスが悪いです。
なぜ、このように足ろうたか、と言うと、初代が足ろうた信心をなさったからで
す。即ち、それをここでは、梅の辛抱、桜の華やかさ、潔さ、柳の素直に任せる心
と言うておられるのです。けれども、私は、以前は、例えば、辛抱も身に付け、潔
い心も身に付け、素直に任せる心も身に付けなければならない、という感じがした
のです。ところが、もうたった一つ取り組めば、全部が身に付くようになっている
んです。それが成り行きを尊ぶ生き方です。
この頃、伊田東教会のご大祭がありまして、そこの娘さんが、恵城の嫁に来て下
さってますが、今度はじめて、恵城から「ご大祭に帰りなさい」と言われて、兄弟
3人が、ご大祭に帰りました。ですから、今までにない有り難いお祭りが仕えられ
たんだそうです。ですから、先生も嬉しかったと思います。ご直会の席で、奥様に、
「おい、お前も一杯どうか」と言うて、それこそ結婚して初めて、お神酒さんを注
がれたんだそうです。すると奥さんが「いえ、私は忙しいですから」とその場を離
れたんですね。それを子供達が目撃して、「どうして、お母さんは、あの成り行き
を受けないのだろうか」と思った、というのです。それ聞いて、私は、神様の心の
痛みを感じました。それこそ、神様が万感を込めて下さる、その成り行きを「要り
ません」と言うようなことが、私達も今まで随分、あっただろうなあ、と思います。
その時、「はい」と言うて、素直な心を出せば、いいことですよ。そのように、こ
こは馬鹿のように素直になりなさい、という成り行きが、あるじゃありませんか。
また、それこそ、ここは、泣き泣きでも辛抱しなさい、という成り行きがあります。
だから、その成り行きを本気で尊ぶと、天の心も、地の心も、日月の心も育つよう
になっているのです。
今朝、私は、教祖様というお方は、泥まみれのご一生を過ごされたお方だなあ、
と思いました。教典をお持ちの方は、196ページを広げて頂けませんか。いろん
な宗祖、教祖が、蓮のうてなに鎮座ましますようなイメージがあるんですが、教祖
様の場合、本当に泥まみれのご一生ですね。次から次へといろんな問題を抱き抱え
て、ご信心なさっています。そのことが、こういう表現になるのかなあ、と思うん
です。これは、市村光五郎という方の伝えです。この方は、教祖様からお話を聞か
れますと、その場で書かれ、そして、「教祖様、これで良いでしょうか」と言うて、
確認なさったそうです。ですから、この方の伝えは、かなり正確な教祖様の教えだ
と言うてもいいんでしょう。その方の伝えの一番最初の御理解が、「金光様のお言
葉に、『祈るところは天地金乃神。昔からある神ぞ。中古(途中)からできた神で
なし。はやりもせず、終わりもせず。信心はせんでも、おかげはやってある』とお
下げあり。―――『地の神は昔から汚い物ばかりかぶっておるぞ』とお話しあり。
『きれいずくのできぬが、お医者と金神』ともお話しあり」ということです。また、
次に、「金光様のお言葉に、『これまでは、きれいずくをする神ばかり』」確かに
そうなんです。本当に、雲の上のお人みたいな教祖像が多過ぎますよ。「きれいず
くをしては、人は助からず。天地日月生神金光のは、きれいずくのない神ぞ。ここ
をよく、氏子、悟るが肝要なり」と言うておられます。
教祖様のご信心は、少しも高上がりされていないという感じがしますね。本当に、
大地にしっかり根を下ろした信心だなあ、と思います。空から降ってくるような根
拠性のないおかげではなくて、この大地から、自然に芽が出て、葉っぱが茂り、そ
して花が咲き、実が実るような自然なおかげだと思います。そういう信心を残して
下さったのです。そして、成り行きを尊ぶということで、全てのものが身に付くよ
うに、合楽の信心は、なっている、ということです。 どうぞ。
平成11年11月6日 朝の御理解(親先生)
御理解第48節
わが子の病気でも、かわいいかわいいと思うてうろたえるといけぬぞ。言うこと
を聞かぬ時に、ままよと思うてほっておくような気になって、信心してやれ。お
かげが受けられる。
『ままよと思うて放っておくやうな気になって』と言うことは、自分の欲や情を捨
てた姿ですから、神さまに充分の働きが頂ける場を作るようなものです。その上
『信心してやれ』とは、いよいよ信心を進めてゆけと言うことです。
四十八節とは、いつもがおかげのチャンスと言うふうに思います。常平生がこの気
持ちにさせて頂くなら、間違いない御神徳がうけられます。(昭51・7・31)
最近、いよいよ実感するんですけれども、教祖金光大神様の教えというものは、
自ら体験して、実際、自分が通っておられるところから、生み出された教えばかり
だなあと思うんですね。今、栄四郎が、イスラム教の勉強をしてくれてますけれど、
コーランという聖典は、ガブリエルという天使が、マホメットに現れて、神のこと
ばを啓示するんだそうで、それが聖典になったと言われてるんですね。ですから、
それほどに尊いんだ、神がつくった教えだ、と言いたいわけでしょう。他の宗教も、
そういう意味で、似たり寄ったりですよね。
『御覚書』『覚帳』が、分かれば分かるほど、教祖様の場合、今日のみ教えなど
も、全く、体験に基づいています。くら様のご病気など、昨日その事件があったか
のように、リアルな書き方をしておられますが、それだけ教祖様の中で、インパク
トのある事件であったと思われます。その中で、「先前は教えてくださる神様もな
し、こんどは結構にお知らせくだされ候。ありがたし。これで死んでもおかげ」と
言われてます。このままよの心も、安政5年6年に、神様の一分一厘間違いのない
働きを積み重ねて来ておられるから、出せるわけですね。
私が、特に最近、実感しておりますことは、自分の欲や情を出さないですむ、と
いうことです。普通では難しいことです。やっぱり自分の欲や情、または自分の常
識というものを出したくなります。そういう私が、最近、なんでこんなに、自分の
欲や情が出ないのだろう、または自分の常識観念を振りかざさないでいいんだろう、
と、私が驚くんです。それは何かといいますと、何ということはないのです。私の
17年間の体験の中に、自分の常識を出すよりも、自分の欲を出すよりも、もう成
り行きに任せるが楽です、という体験を積み重ねてきたからなのです。欲を出しち
ゃいかん、自分の常識を出しちゃいかん、というようなことじゃない。もう自然に
そういう受け方、そういう対処の仕方になっておるのに、我ながら驚くというか、
本当にお育て頂いているなあ、と実感するのです。
今、合楽の窓口が広がっているものを感じます。昨日も奈多教会の藤尾先生に来
て頂きまして、大変広範囲なお話をして頂きました。結局、教団史という視点から、
例の「縄張り考」を中心にしてのお話でした。先生がお帰りになる時に、しみじみ
とおっしゃったんだそうです。「もう一遍勉強してみようという意欲が湧いてきた」
と。合楽で、いろんな質問を受けて、火花を散らすような場面もあったんですけれ
ども、それを聞かせて頂いて、今の合楽に起こっておりますことの中に、相手も助
かり、こちらも助かるというような核融合的革命を感じるのです。それが、なぜ出
来るかと言うと、結局、自分を空しくしておるからだ、と思うんです。こちらが
「教えて下さい」という姿勢ですから、何とも言えない雰囲気の中で、お互いが勉
強になるわけです。ですから、こちらが頂こうという姿勢になりますと、すべての
人が、師匠になり得るんだなあ、と改めて思います。
藤尾先生のお話の中で、特に感動しましたのが、佐藤宿老のことでした。今まで、
佐藤宿老になかなか接近できないものがあったんですが、その佐藤宿老が、どうで
も、国に認められる布教体制を作らねばならんと、金光教の独立を願われたんです
ね。そしたら教祖様が「此方は、独立してもせんでも、人が助かることさえできれ
ば結構である」と。そこで宿老が「金光様おわする間は仰せのとおりで結構であり
ますが、お隠れの後は何か書いた物がありませぬと、世のはやり神と同じように思
われます」と進言されると、「神の教えることを何かと書いておくがよかろう」と
お許しがあり、宿老が教祖様の元で頂かれた教えが、当時の西洋紙に鉛筆で書かれ
ているんです。その現物を見ると、震えるような感動を覚えました、というような
お話をして下さいました。
この金光教教祖の残された教えというものは、ある日、突然、神懸り状態になら
れて、書かれたのではありません。一つ一つの教えが、自ら体験なさって、そこか
ら生み出されたものばかりです。ですから、私達が教祖様の辿られた道を辿ろうと
したら、誰でもが、辿れる道なんです。お互い、そういう意味合いで、せっかく、
神様が一段信心を登らせてやろう、より本当のことを教えてやろう、より本当のお
かげを授けてやろうという成り行きを下さる時に、そんなものは要りませんという
ようなことでは、余りにも勿体無いですよ。けれども、私達の成り行きの頂き方を
思う時、そういう神様の万感の思いがこもった成り行きを、どれだけ足蹴にしてき
たことだろう、どれだけ無駄にしてきたことだろう、と思います。この家業の行の
中に、四六時中、そういう対決といいましょうか、そういう成り行きが起こってき
ているのです。お徳が頂けるチャンスは、四六時中あるなあ、と改めて思います。
ですから、神様が下さる成り行きの一つ一つを、いよいよ目細く頂いていきたいと
思います。 どうぞ。
平成11年11月5日 朝の御理解(親先生)
御理解第39節
此方の行は水や火の行ではない。家業の業ぞ。
お道の信仰による行の目的は神に向かう神に近づくにあります。家業に精を出して
居れば修行しているような思い方をしてはなりません。家業の行の中に真に有難し、
又人が助かることさえ出来ればの精神が育ってゆかねばなりませんが、なかなか難
しいことであります。そのような神心、奉仕の心が頂ける為にやはり火の行も水の
行も、又心行も必要であります。すべての行はそこが体得出来て家業になり、はじ
めて「家業即行」「行即家業」ということが出来るのです。本来、修行の眼目は己
を乱さないというにあります。火にも焼けない、水にも流されない自分を修めてゆ
くのです。 (昭45・7・21)
様々な成り行きの中で、今日は、奈多教会の藤尾とおっしゃる先生に来て頂いて、
お話を頂くことになりました。藤尾先生がお話しして下さることは、去年、金光教
ルネッサンスということで、その一部を聞いて頂いた内容でもあります。
明治の20年代位ですか、金光教が大変な勢いで伸びてまいります。特に、大阪
の白神新一郎先生、近藤藤守先生達を中心にして、物凄い勢いで大阪に伸びていく
わけです。ところが、そこに発生いたしましたのが、いわゆる縄張り争いなんです。
これは今日まで、手続きという名のもとに、その争いが続いておるわけです。です
から、これは大きく言いますと、いろんな宗教のトラブルにも繋がるものですね。
宗教の違いによって異端の名のもとに、それこそ何千万という人が殺されています。
本当に悲劇ですよね。
2、3日前の新聞でしたが、今度、インドにローマ法王が行かれるらしいんです。
それで、地元のヒンズー教の人達が抗議文を出してるわけです。約4百年前に、キ
リスト教が、インドに進出して来まして、いわゆる魔女狩りの名のもとに、ヒンズ
ー教の宗教家が、千何百人も殺されたんだそうです。しかも、千何百の寺院を破壊
し、2万何千人の人に拷問をしておるのです。だから、それを謝罪せよと。そして、
他宗教を認めなさい、というわけです。普通の要求ですよね。けれども、それを認
めようとしない、というような新聞記事でした。
キリスト教が大変な勢いで伸びてまいります。そういう中に生じてまいりますの
が、権力の集中です。権力が集中しますと、ろくなことがないです。そういう時期
に、余りにも堕落していきますキリスト教を見兼ねて、例のマルチン・ルターとい
う人が宗教改革を起こします。そして、キリスト教が、カトリックとプロテスタン
トに分裂していくのです。それが、5百年前の話で、1日付けのドイツ紙によると
「16世紀の改革以来、カトリック教会とプロテスタント‐ルター派教会の対立点
となってきた、キリスト教の教義をめぐる両者が、5百年ぶりに和解し、10月3
1日、ドイツ南部のアウグスブルクで両派の代表が合意文書に調印した」というよ
うなことが、起こってるのです。私は、本当に合楽の祈りというのは、なんという
凄まじい働きになってくるのかと、その手応えを感じました。
昨日の御理解にありました、核分裂的革命じゃなくて、核融合的革命というのが
有り得る、と。例えば、片山さんという、この方は熱心なプロテスタントのご信者
さんですが、合楽に来られて、「何十年信心してきて初めて、信仰の喜びを感じて
います」と言われました。今度、合楽では、まあ楽しみにしておいて下さい、『キ
リスト物語』という劇をするそうなんです。それで片山さんの娘さん達が、合楽に
来て、指導して下さっているそうなんです。そういう関係が出来てくる。本当に有
り難いと思います。
いろんな宗教が「自分の方が正しい」ということで、そこにキリスト教、イスラ
ム教、仏教と様々に争いがある。金光教でいうと、今なお手続きの名のもとに、い
ろんなトラブルが起きる。そこでふと、どうしたら、これが起きるのだろうか、ど
うしたら、これが解決するのだろうか、と思いました時に、教祖様の「此方は、人
が助かりさえすれば、それでよい」ということを頂くんです。そして、今日のミニ
御理解の、「家業の行の中に真に有難し、又人が助かることさえ出来ればの精神が
育ってゆかねばなりませんが、なかなか難しいことであります」ということを頂く
のです。そして、そういう神心が、教祖様の中で、どうやって育っていかれたかが
問題でしょう。それが、他のことでもなんでもないのです。キリストは、生まれな
がらに神の子です。お釈迦様の場合は、難行苦行の限りを尽くして仏になった方で
す。そうした時に、我が教祖は、家業の行で神心を育てられた方ですよ。今、私の
中で育っている神心を思う時に、私が、そのささやかな実証をしていることになる
と思うわけです。
この家業の行というのは、凄い内容があるんだ、ということを分かってもらいた
いわけなんです。それと同時に、合楽の祈りというのは、世界を動かすんだという
確信を皆さんも持って頂きたい。今、合楽の窓口が、こんなに広がっていくものを
感じます。そして、そこにトラブルがないと思うんです。今度、有り難いと思いま
したことに、津屋崎教会のご大祭が終りました時に、何人もの先生が、「合楽を誤
解してました」と言うて、「是非、今度お参りさせて下さい」というような雰囲気
が生まれてまいりましたことです。これは、なにかと言いますと、結局、「もう合
楽が一番」というような、私達の頑迷さによる壁を取り外したからだと思うんです。
成り行きを尊ぶという、この階段を登ると、本当にこんなことが出来るのかという
ような働きを、今感じております。 どうぞ。
平成11年11月4日 朝の御理解(親先生)
御理解第50節
とかく、信心は地を肥やせ。常平生からの信心が肝要じゃ。地が肥えておれば、
肥をせんでもひとりでに物ができるようなものぞ。
養素拝山
心を養う素ハ、難儀そのものを拝んでうける修行に徹することである。
ご神願がわかり、神愛を悟ることが出来る。
筋金入りの信心とは、この神愛を頂けたとき。 (昭57・7・10)
この御理解50節というのは、教祖様しか説き得ない御理解だろうなあ、と改め
て思います。ですから、教祖様の場合、どうして、こういうところに目が向けられ
たか、ということですね。例えば、花が咲いたり、実が実ったり致しますと、普通、
その実の部分、または、その花の部分にしか目がいきません。ところが、この実は、
どこからなっておるんだろうかと、結局、地を肥やすというところに目がいかれた、
教祖様のその着眼点です。教祖様の場合でも、初代の場合でも、その経緯があるん
です。
例えば、初代の場合でいきますと、椛目・合楽50年の歴史の中で、様々なとこ
ろを、初代は通ってみえてますよね。あの例の上滝勇さんという方は、粟粒結核で
したが、おかげで奇跡的なおかげを頂かれました。初代が、当時は4年半の修行中
で、一切を受けようというような中での出来事でした。それこそ「粟粒結核の人を
抱いて寝よ」と神様がおっしゃる。実際抱いて、寝まれたそうですが、それこそ奇
跡的なおかげを受けられました。ところが、おかげを受ければ、喉元過ぎれば熱さ
を忘れるで、「私のは、粟粒結核じゃなかっただろう」というようなことを平気で
人にも言い出されました。再就職のおかげを頂いて、そして本当にあっと言う間だ
ったそうですね。奥様が、「椛目にお参りに行こう」と言うて、朝早く起きられた。
そうしたら布団の中から、「よかじゃんか」と手を引っ張ったと同時に、亡くなら
れたのです。それを境に、当時の椛目の広前は、お参りが半減したと言われます。
そこから、初代は、朝5時から夕方の4時まで、トイレも立たないで、御結界奉仕
をなさる、という過酷な修行に入っていかれました。
椛目・合楽50年の歴史の中に、そのようなことが、度々あります。その度に初
代が何を気付かれていくのか。これは、教祖様の場合だって同じですね。そういう
ことがあり続ける。そういう中で、初代にしても教祖様にしても、おかげ信心の空
しさ、無意味さ、自分の思い通りになる時は、「おかげ頂いた」と言うて、それこ
そ、押し掛けるようにして皆が参って来る。けれども、右と願って左となった時に、
こんなにも無意味なものか、と思われるのです。当時、教祖様のお広前などは、そ
れが、はなはだしかったと思います。そういう中に、あの神前撤去というのがあり
ます。いよいよお取次できなくなった。そこで、教祖様は、おかげは和賀心にあり、
という信心を確立すれば、私が拝んでやらなくても、助かるんだと悟っていかれる
のです。ですから、本当の助かりとは、いったい何なのか、自分でその答えを出し
て頂きたいと思うのです。前のページに、「いやなもの、いやなこと、すべてが心
のこやし」とあります。これなんか、初代の独壇場だ、と思います。初代だからこ
そ、説き得た教えだ、と思います。そうでしょうが。徹底して、子供じゃない、信
者じゃない、私が改まろう、大きくなろう、いや私の根肥やしにしよう、と受けて
下さった方です。そこに、願い以上のことになってきただけです。
昨日、津屋崎教会の先生が、お礼参拝されました。あちらの信者さんの子供も来
ていましたが、あっと言う間に合楽の子供達と馴染むわけです。また、今、ブラジ
ルから、秋山誠輝君と梶原佳行君が来ていますが、すぐに、合楽でずうっと育って
おるような馴染み方をするんですね。それで、改めて、初代がつくって下さってお
った、この土壌というのは、いったい何だろう、と思うんです。初代が、いやなこ
といやなものすべてを頂いて下さった、そのおかげで、このような豊かな土壌が出
来、どのような性格の人達でも育っていく土壌になっているのです。まさに初代が
つくって下さった、この豊かな土壌の中で、私のような人間が、争いのない世界が
くることのためならば、どんなことでもしてみたいというような気持ちに、今なら
されております。
今日の50節などは、普遍的助かりが頂ける御理解です。「一切が地を肥やすも
となんだ」ということが、世界中に浸透していったら、争いが起こるはずがないで
すよ。例えば、こういうことがあるんだそうです。同じエネルギーでも、核分裂に
よって得るエネルギーと核融合のエネルギーがあるんだそうです。今、核の施設が
ありますが、あれは核分裂によって得るエネルギーだそうです。ところが、太陽の
エネルギーは核融合のエネルギーなんだそうです。しかも、これには弊害がないと
言われています。私は、この核融合エネルギーは、必ず出来るようになると思いま
す。しかも、このエネルギーはなくならないと言われてます。私は、この御理解5
0節などは、本当に核融合エネルギーだと思いますよ。「おかげは和賀心にあり」
ということは、核融合エネルギーだと思います。そういう助かり方があるのです。
いやこれは、実際、教祖様が、初代が、顕して下さったのです。大それたことを言
うようですけど、私が、ささやかな体験ですけれども、実際に頂いておるじゃない
ですか。こういう助かり方があるとするならば、私は、これこそ、21世紀の助か
り方だと思うのです。 どうぞ。
平成11年11月3日 朝の御理解(親先生)
御理解第69節
信心はみやすいものじゃが、みな氏子からむつかしゅうする。三年五年の信心で
は、まだ迷いやすい。十年の信心が続いたら、われながら喜んで、わが心をまつ
れ。日は年月のはじめじゃによって、その日その日のおかげを受けてゆけば立ち
行こうが。みやすう信心をするがよいぞ。
その日その日のおかげが足らんような思いから、信心が間違ってくる。
信心はどこまでも我ながら我が心をまつれるようになるけいこである。
信心は容易いものと仰せられるのは、例えば自動車の運転を覚えるようなもので、
覚える気になれバ誰でも覚えることが出来るようなもの。覚えようとしないからむ
ずかしいものになる。 (昭46・7・20)
これは、何の稽古事でも共通することだと思うんですが、一度はやっぱり、頭が
パニックになりますね。例えば、車を運転する人というのは、前を見ながら、機械
をいろいろいじくりながら、そして、アクセルを踏んだり、ブレーキを踏んだり、
いちいち頭で考えていたら、パニックになるだろうと思います。けれども、車の運
転を覚えたら、自ずと手足が動くんでしょう。ですから、何事でも、身に付けるま
でだと思うんです。私の場合だって、「成り行きを尊ぶしかないんだ」ということ
が、はっきりした時点から、私の中で信心が見易くなっていったと思います。特に
今、さあ教祖様だ、キリスト様だというようなことなんですが、もうこの年になり
ましても、「あの勉強も、この勉強もしてみたい」ということになるわけです。
伊藤さんが、この頃のくノ一祭が終りまして、その日の夜にお礼参拝してきまし
た。そして、しみじみと言うんです。「先生、私のような女が、こんなに有り難う
なれる。こんな思い方が出来るようになった。どう考えても奇跡です」と言うわけ
です。皆さんだって、だんだん、それは実感できるようになったんじゃないでしょ
うか。昨日、家内が、お夢を頂いてるんです。それが、体の中から、虫がぼろぼろ、
ぼろぼろ出てくるという、気持ちの悪いお夢だったと言うんですね。恵城も昔、初
代から「信心は日々の改まりが第一」というお書き下げを頂きましたが、その日に、
それこそ体から、虫がぼろぼろ、ぼろぼろ出るところのお知らせを頂いてるんです。
先日、ある問題が起こりました。普通の家庭なら、まずパニックになるような問題
です。それを、家内が、さらりと受け流すんですね。だから、昨日、初めて奥様に、
「いや、おまえ、変わったよ」と言いましたら、そばにいた美恵が、即「うん、変
わった」と。子供から、主人から言うてもらえるとは、本物でしょう。もっとそれ
が積み重ねられていけば、われながら喜んで、わが心をまつれるようになるという
手応えが頂けるんじゃありませんか。
いろんな宗教が分かれば分かるほど、今の私の実感は、教祖様こそ、「前人未踏
の道」を歩かれた方ですね。例えば、先日から頂きますように、「此方の行は水や
火の行ではない。家業の業ぞ」と。こんなことが説き得る宗祖、教祖というのは、
他に絶対いないです。初代が、「和賀心時代顕現」を提唱された時に、和賀心は、
世界の市場のどこに出しても恥じることのないものだ、と言われましたが、私は今、
金光教は、21世紀の宗教だ、と実感するのです。
初代が、「浅さは深さ 深さは浅さ」と表現なさっていますが、最初は浅いとこ
ろから入っていくわけです。そして、だんだん信心が深まってまいります。その時
が、パニックになるところでしょう。そしてまた、浅さに戻る。だから、結論する
と、「何だ、そうか」と、「もう成り行きを尊ぶ以外にない」ということになるわ
けです。「前代未聞の宗教」と言われても、「どこが、どうなのか」今まで、分か
ってなかったのです。ところが、今、「なるほど、そうか」という深さを習わして
頂いております。その中に、もう教祖様の勉強だけでも一杯一杯だったものが、
「さあキリスト様だ」というようなことになってきた。これからイスラム教も出て
きますよ。仏教も出てきましょう。
今、ブラジルの先生達と、私と、デューセック先生で、キリスト教の勉強会をし
てるんです。初代が言われていたように、確かに宗教学者というのは、生に神様を
扱うことが出来ませんけれども、離れて見ますから、総合的に宗教が見えるんでし
ょうね。昨日、その勉強会の中で、梶原先生が言ってましたが、ある宗教学者が、
「霊験、奇跡を信ずるというのは、霊的次元の低い人たちが興味を示すことだ」と
言ってるんですね。これは、教祖様の信心を辿らせて頂いて分かったでしょう。神
様から、いちいちお知らせ頂いて行動なさるのは、あの安政5年、6年の時だけで
しょうが。それは、方便の過程なのです。それが、嘘ということじゃないですよ。
ですから、より本当のことが分かれば、信心というものは、「簡単です、明瞭です、
しかも、おかげが確かです」というようなことになってくるのです。
けれども、今はお互いが、丁度、自動車の運転を覚えておる最中のようなもので
す。ですから、まあ多少パニックになるでしょう。教祖様を知ったり、キリスト様
を勉強したりすることで、皆さん、頭が混乱しているんじゃないですか。少しは整
理が付いていますか。けれども、もうちょっと辛抱してみて下さい。そうしたら、
もう少し簡単になっていくでしょうから。身に付けてしまえば、確かに信心は見易
いものということになってくるのですから。 どうぞ。
平成11年11月2日 朝の御理解(親先生)
御理解第59節
習うたことを忘れて、もどしても、師匠がどれだけ得をしたということはない。
覚えておって出世をし、あの人のおかげでこれだけ出世したと言えば、それで師
匠も喜ぶ。おかげを落としては、神は喜ばぬ。おかげを受けてくれれば、神も喜
び、金光大神も喜び、氏子も喜びじゃ。
育つ働きと育てる働きが相まってゆく限り自他共に助かり、神も助かり氏子も立ち
行くおかげが開けてくるはずなのに、どの辺から間違うのか『神も喜び金光大神も
喜び氏子も喜びぢゃ』ということになっていない。
育てる者も育たねばならぬ。育てる者の深く反省せねばならぬところです。信者も
おかげを受けることのみに終始せず、共に育たねばならぬ。
合楽で言う『五つの願い』が成就することは、神の願い、氏子の願いが成就するこ
とになる。 (昭52・7・11)
まあ様々な助かり方があるわけですが、お道の信心の助かり方というものは、
「神も喜び、金光大神も喜び、氏子も喜びじゃ」というような助かり方ですね。そ
れを初代は、神様の願いと私共の願いが共に成就するという助かり方とおっしゃる
のです。けれども、本当にこういう助かり方を、金光教の百何十年の歴史の中で成
就してきただろうかと思います。ただ、片便の願い捨て的なおかげであったり、神
様からむしり取るようなおかげばっかりだったという感じがするんです。教祖様の
場合でも、明治4年頃から、神様の本筋のご教導が始まります。当時のお参りの仕
方が、お伺いばっかりなのです。その時代状況として、そりゃ仕方がなかったと思
うんですが、そんな中に、本当の助かりにみんなを教導していきなさいということ
になってくるのです。そして、明治6年の天地書附に至られます。
私は、夕べ、休みます時に、「おならをした教祖」という本を出版したら、ベス
トセラーになるんじゃなかろうかと思いました。私は、こうやって他宗教というか、
特にキリスト様のことを知らせて頂いて、初めて金光教こそ、前代未聞の宗教だ、
と実感できるようになりました。こんな教祖様がおられるだろうかと思います。ち
ょっと比較をしてみましょうか。例えば生誕の場面ですね。「イエス・キリストの
誕生の次第は、こうであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、まだ一緒にな
らない前に、聖霊によって身重になった」と。いわゆる処女受胎のことです。「夫
ヨセフは正しい人であったので、彼女のことが公になることを好まず、ひそかに離
縁しようと決心した。彼がこのことを思い巡らせている時、主の使いが夢に現れて
言った。『ダビデの子、ヨセフよ。心配しないでマリアを妻として迎えるがよい。
その胎内に宿っているものは、聖霊によるものである。彼女は男の子を産むであろ
う。その名をイエスと名付けなさい。彼は己の民をその諸々の罪から救う者となる
からである』」と。次に、『金光教教典』の3ページを広げて下さい。私は、これ
を読んだ時に、改めて何か打ち振るうような感動を覚えました。「金光大神生まれ
所は、同国同郡占見村。香取千之助孫。父は十平、次男。氏神大宮大明神祭り日、
暮れ六つ前に生まれ、男。父酉の年三十八歳の年、母は卯の年三十二の年。文化十
一甲戌八月十六日、戌の生まれ、香取源七と名つけ。母は益坂村徳八娘、おしもと
申し」と。これが、教祖様のご生誕の件でございます。この違い。これは何だろう、
と私は本当に驚きました。
そして今度は、キリスト様が十字架にかけられて、復活というのがあります。死
人の中から甦ってくるという預言に基づいてのことです。それで、私が先ほど申し
ます、「おならをなさった教祖」ということです。ご晩年の、段々教祖様が容態が
悪くなられる中で、これは、明治12年の話です。「またおいおいに腹がぐうぐう
ごろごろと鳴り、手水出。屁がかつかつ出、腹の内はぐあいよし。三月十五日よし、
六日、両日は手水へ行かず。四日ぶりに出」と。そういう状態が、半年ほど続かれ
るのです。それを赤裸々に書いておられます。どうです。どちらが助かります。ど
ちらが信憑性があります。本当に教祖様こそ、生身の身を持ちながら、普通の生活
をしながら、神になった第一人者だと思います。その教祖様が、何を私達に教えて
おられたのか、ということになりました時に、教祖様は、「此方の行は水や火の行
ではない。家業の業ぞ」でおかげを受けてこられたお方です。
例えば、金光教の旧教典の183か条のみ教えも、半分ぐらいは、教祖様の教え
ではないだろうと言われてるんだそうです。どうです皆さん、それで動揺します。
例えばキリスト教の人に、「新約聖書は、ほとんどが創作ですよ」と言いましたら、
びっくりなさいましたよ。そりゃ困るですよ、キリスト教の場合は。処女受胎を信
じて、あの復活を信じないと、キリスト教は成り立たないんです。ところが、金光
教の場合、この『天地書附』さえ持っていれば、何を崩されてもいいと感じます。
合楽でいうなら、「成り行きは神の働き」、これさえ皆さんが壊さなければ、何を
壊してもいいと、私は思います。それほどのことの中で、『天地書附』が定まりま
した。けれども、和賀心でお徳を頂きました、和賀心で今日まで、おかげを頂いて
おりますという人は、一人もおられないでしょうが。「習うたことを覚えておって、
出世をし」てないのです。そういう意味で、過去数千年の宗教の集大成が、合楽の
中で成就しておる。教祖様の信心が、今合楽で、私は成就しておると思うんですよ。
そういう意味で、皆さんがどうでも、「おかげは和賀心にあり」をです、成り行き
で私はこうおかげを頂いておりますという、助かり方の実証をね、どうでもして頂
かなければならないと思いますね。 どうぞ。
平成11年11月1日 月例祭御教話(親先生)
初代の偲草として皆さんに差し上げた『和賀心を永遠の生命として』というご本
をお持ちでしょうか。大変内容の濃いものですが、その一字一句にしても、他の初
代のお言葉にしても、合楽の場合は、作り話とか創作は一切ありません。全て初代
のお話は、例えばお具合が悪くなられましても、全部テープに取るというような収
録の仕方をしました。それこそ、キリスト様の聖書とは、だだ値が違います。聖書
の場合、99パーセントが創作なんだそうです。いやこれは、それの方が自然なん
ですね。金光教の歴史を見ましても、資料がないなら、げなげな話になっているか
も分かりませんよ。
教祖様の立教神伝をご存知ですね。安政6年です。ところが、当時主流になりま
したのは、安政2年説なんです。しかも、漫画のような教祖伝が描かれているので
す。教祖様が亡くなられて、僅か6年しか経っていない、明治22年に、お上に、
立教神伝は、安政2年の9月10日で提出してあるわけです。それがなぜかと言い
ますと、弟の繁右衛門さんが安政4年に神憑り状態になられましょう。そして、そ
の願いを受けられて、教祖様が実意の限りを尽くされて、金神の宮を建てられるわ
けです。「十一月九日ご遷宮。弟繁右衛門未の年、すぐに肥灰(農業)おさしとめ
に相成り候」となられ、これが、後々の香取金光教の立教神伝になるのです。そし
て、当時、教祖様のお広前よりこちらの方が、一時、お参りが多かったんです。で
すから、うちが元祖だ、というので、立教を、安政2年にしなければならなかった
のだそうです。こんな実意な金光教ですら、そういう創作がされるのです。ですか
ら、例えばキリスト様のお話なんかが、それこそ何世代も経ってからですから、い
ろいろ創作されて当り前だと思います。
ところが、金光教の場合、創作のしようがないです。『覚書』『覚帳』というも
のを、教祖様が、お書きになっていますから。「屁がかつかつ出」とか、うちの長
男はこんなに出来損のうた、と書いてあるんだもの。どんなにそれこそ美辞麗句を
書き並べて作ろうと思うても、作れないです。そういうごまかしのない教祖像が私
達の目の前に頂けるわけです。そして、今日、「此方の行は水や火の行ではない。
家業の業ぞ」という御理解を頂いて、私は改めて、この教祖様は、私達の生きるそ
のままに、普通の生活をして、普通の方が、いやむしろ、教祖様は平人とおっしゃ
ったように、一般の人より下の平人が、神様になったお方です。お釈迦様でも、キ
リスト様でも、生活を捨てておられますよ。教祖様のように、家業の業の中に根を
しっかり降ろされて、信心を進めていかれた方は、他の宗祖教祖では、いないんじ
ゃないかと思います。
私達が生活をするということの中には、例えば夫婦の問題とか、親子の問題とか、
経済の問題とか、いろいろあります。それをそのまま書かれたのが、この『お知ら
せ事覚帳』です。その中には、こんなことまで書いてあります。「一つ、子供に申
し渡し。反物あっても仕立てな、時のはやりがあるから。一つ、しま木綿すな。一
つ、白木綿吟じていたし、ためおきよし。一つ、売り布はすな」と。この神様は、
教祖様の、箸の上げ下ろしまで、関わってみえる神様ですよ。これは、微に入り細
に関わってみえる神様の一つの証です。本当にこんな教祖様が果たしておられるだ
ろうか、と思います。金光教は、前代未聞の宗教ですよ。
ところが、今申しますように、教祖様は、それこそ微に入り細にわたって書いて
おられますが、例えば山伏事件でも、教祖様が、その時、こういう信心に取り組ん
で、力を受けましたということは、一行も書かれていないんです。この山伏事件な
どは10年続きますからね。百回ぐらい、布教の妨害に来たんだそうです。しかも、
刀まで引き抜いた。本当に教祖様は小便をひりかけられたんだそうですよ。「人が
小便ひりかけてもこらえておれい」とか、こう度々来るのは神様のご都合に間違い
ない、というような頂き方は、教典の中に出てまいります。こういう時、教祖様が、
どういう生き方、頂き方をなさったかということは、初代を下敷きにしますと、い
よいよはっきりしてくるのです。初代は、勝彦の姿が私の姿だ、と頂いて下さった
方です。教祖様も、正神様の問題で、同じ受け方をなさったと思います。それが、
例えば初代より教祖様が十倍ご修行が激しいです。教祖様より千倍、キリスト様の
方が激しい。それこそ狂気じみた受け方です。ですから、キリスト様より教祖様の
方が受けやすいです。教祖様より初代の方が受けやすいです。初代より私の成り行
きの方が受けやすいです。私の成り行きよりくノ一会の伊藤さんの成り行きの方が
受けやすいです。こんなにも誰でもがみやすくお徳が頂けるような道に、今、合楽
理念がなっておるということです。
お互いが信心致しておりますが、助かりとは何だと思いますか。それは、喜びで
す。信心に感動がないなら、有り難いという心が頂けていないなら、成り行きを頂
いてないと思うてもらわなきゃいけないんです。
成り行きを尊ぶという信心が、私の中で成長してまいりました。それで、私が救
われました。そして、合楽教会の助かりの理念だ、と。そして、教祖様の勉強をさ
せて頂いて、金光教の理念なんだ、と。そして今、キリスト様に出会わせて頂いて、
いやとんでもない、金光教の理念ぐらいではない、これは世界の宗教の理念だ、い
や、人類の理念だという、育ち方をしております。こんなにも大変なことなのかと
思います。その原点が、「水や火の行ではない。家業の業」の中にあるわけです。
神徳を科学する内容も、有り難さの追求も、すべてのものが凝縮されておるのが、
この家業の行です。お互いが、教祖様しか説き得ない、「水や火の行ではない。家
業の業」というこのご内容を頂きたいと思いますね。 どうぞ。
平成11年11月1日 朝の御理解(親先生)
御理解第39節
此方の行は水や火の行ではない。家業の業ぞ。
お道の信仰による行の目的は神に向かう神に近づくにあります。家業に精を出して
居れば修行しているような思い方をしてはなりません。
家業の行の中に真に有難し、又人が助かることさえ出来ればの精神が育ってゆかね
ばなりませんが、なかなか難しいことであります。
そのような神心、奉仕の心が頂ける為にやはり火の行も水の行も、又心行も必要で
あります。
すべての行はそこが体得出来て家業になり、はじめて「家業即行」「行即家業」と
いうことが出来るのです。
本来、修行の眼目は己を乱さないというにあります。火にも焼けない、水にも流さ
れない自分を修めてゆくのです。 (昭45・7・21)
※神に向かうための形の行も心の行も、行という行がすべて大切であります。
その精神を体得しての家業になりますと、教祖の神意、いわゆる家業の業の
行の意味がわかります。
いろんな宗教も勉強させて頂いておりますけれども、この御理解などは、教祖金
光大神のご信心の独自性と言いましょうか、もう教祖様しか説き得ない、いや、教
祖様だからこそ、それが言えたのだ、ということがはっきりしてきますね。今日の
御理解などは、お釈迦様でもキリスト様でも、説き得ないです。なぜって、おふた
りとも、家業を捨てた方ですから。
私達が生活をする、家業を営むということの中に、様々な問題が絡み合います。
たとえば夫婦の問題、親子の問題、金銭の問題、健康の問題というように、様々な
問題が、家業の中にあるわけです。教祖様は、そういう家業のその問題を通して、
信心を進められたということです。教祖様は、そういう助かり方をなさったんです。
それが、こういう御理解になってるのです。ですから、お互いが、そこがどうなっ
ておるのかです。
一昨日、くノ一会結成20年の記念のお祭りに行かせて頂きましたら、玄関にこ
んな大きな鯉が置いてありました。(合楽では「鯉」のお知らせは御神徳と説く)
横の川で、しかも手づかみで取れたんだそうです。お祭りを頂きながら、あれやこ
れやを思いました。最近申し上げますように、キリスト様の受け方は、過ぎた受け
方だと思いますよ。たとえば、「右の頬を打たれたら、左の頬を出しなさい」「上
着を取る人には、下着まで差し上げなさい」と。それに十字架です。あんなことは、
私達には出来ません。ところが、そのキリスト様より、教祖様の方が、みやすくな
ってます。教祖様より、初代の方が、みやすくなってますよ。初代より、私の成り
行きの頂き方が、みやすくなってます。それに、私より、くノ一会の伊藤さんの成
り行きの頂き方が、みやすくなってますよ。いわゆる成り行きという道が、どんど
ん進化してくる、成長していっているのです。私の中で段々、成り行きという頂き
方が成長してきた時に、私の助かりだけではない、これは金光教の助かりの理念だ、
いや、宗教の助かりの理念だ、いや、21世紀の助かりの理念だ、というように、
私の中で高められてまいりました。
それが、もうこれは金光教の伝統だからとか、キリスト教で言えば、あの聖書が
絶対だから、とそんなことを言うから、難しくなるのです。聖書に縋り付こうとす
るなら、キリスト様と同じ茨の道を歩かなければならなくなるのです。
初代は、「神徳を科学する」とおっしゃいました。だから、私は、この頃、修行
生の先生達にも申し上げたんですが、教祖様やキリスト様を勉強する、確かに知る
ことの喜びというのはあります。けれども、それに浸っておりますと、今度は、成
り行きを尊ぶということを疎かにしがちですね。それでは、知ることの喜びはある
けれども、有り難さには繋がらないのです。有り難いという心は、私が助かって行
かなければならないわけです。本当に有り難涙がぼろぼろこぼれるような助かりを
頂きたい、と思います。けれども、この知ることの大切さですね。たとえば、お互
いがなぜ頑迷になるか。それは、より本当を知らないからですよ。無知なるがゆえ
ですよ。初代の、「より本当からより真実へ」というのは、やはり知ることだと思
うんですね。そして、信心に肝心なのは、改まるということです。成り行きの中で、
改まっていく。そこに、有り難い心が頂けてくるのです。神徳を科学する、と同時
に、この有り難いという心、その両方が頂けるのが、成り行きを尊ぶという生き方
であり、この家業の行の中に、私は全ての内容があると思います。
初代は、「朝を生命として」「成り行きを生命として」と言われました。私はこ
の家業の行を一口で言うなら、「朝を生命として」ということになると思います。
たとえば、今、こうやって研修をさせて頂きます。教祖様のことがどんなに詳しく
なっても、どんなにキリスト様を知ったというても、第一、朝起きも出来んでは、
おかしいですよ。本当に家業の行というならば、そういうことになります。ですか
ら、教典の勉強ぐらいは、教祖様の勉強ぐらいは、せめて、「朝を生命とする」
「成り行きを生命とする」、ということをもって、ということになりますよね。そ
れも、神様の親切に触れながらでなければ、また神様のそういう応援歌を頂きなが
らでなければ、出来ることじゃないなあ、と思います。 どうぞ。
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