平成11年9月26日 和賀心デー御理解(親先生)
御理解第25節
信心は大きな信心がよい。迷い信心ではいかぬ。一心と定めい。
天地より大きいものはあるまい。
大きな信心には行きづまりがない。迷いもおこらない。
天地に学ぼう。
『天の心』恵み与え切る心。無条件に与える心。これこそ真である。
『地の心』それは受けてうけて、それを育てる心。
天地の心を心としての信心修行こそ大きな信心の焦点といえよう。
真の天や地のぬくもり (昭45・7・7)
今、私の中で何か新しい世界が開けていっておるようなものを感じます。それは、
私のような人間が、本気でこの地球上から貧争病というものがなくなることのため
に、私の一生を捧げてみたい、と思わせて頂くようになっているのです。
本質的に人間は誰でもがそうなんでしょうけれども、自分が一番可愛いわけです。
自分さえよければよいというようなものがありますね。それが高じて、人間のこの
争いです。例えば自分の子供に保険をかけて殺すなんかっていうのは、どうなって
るんだろうかと、思いますよ。これは、昭和49年位だったと思いますけれども、
初代が、神様から「地球に死相が出た」と頂かれました。そして、「自分で自分の
首を絞めるようなことをするから」とのお知らせを頂かれました。それは、今申し
ます、自分さえよければよい、ということです。自分の家庭さえ、自分の国さえ、
自分の宗教さえ繁栄すればよい、という、そういう利己主義なものが、そういうこ
とになっていくわけです。
この前、霊祭が終わりました後に、部屋でテレビをつけさせて頂きましたら、ど
このチャンネルを回しても身体障害者の子供さんを持つ家庭の報道ばっかりでした。
本当に世の中には、いろんな難病をかかえて、そういう痛み、問題をもって生きて
おる人達が、ずいぶんおられるんだなあと思い、貧争病のない世界というのは夢物
語だろうか、と思わされるくらいでした。けれども、そういう意味合いで、初代の
中に、また合楽の中に貧争病のない世界を見るんです。いや、初代は病気なさった
じゃないですか、と言われるかもしれません。だから、病気がないというのは、初
代が言われるように、「私のは、糖尿病という名の神様のご都合だ」ということで
す。例えば、今合楽で百人からのものが生活させて頂いてます。それぞれ考え方も
違うし、性格も違う。そういう価値観の違うもの同士が、これだけ大勢で共同生活
をしていけるというのは、現代の奇跡だと思いますよ。いや、もちろんいろんな問
題はありますよ。人間関係で衝突することもありますけれども、最終的には、「そ
れを信心で頂こう」としてますから。ですから、完璧な見本ということじゃないで
すけれども。
だから、貧争病のない世界というのは、病気や問題が何にもなくなる世界という
ことじゃないと思います。問題はありどおしでしょう。例えば私が、この十何日間
かこんな状態が続いてますけれども、私は、今度の病気の中で、体質改善、運命改
善という感じがしてならないですね。それと同時に、何か今の地球の姿が、私の中
に表れておるような感じがするのです。本当に地球が弱ってる。こういう時代にな
りました時に、お互いが、自分の商売さえうまくいけばよい、合楽教会さえご比礼
がたてばよい、そんなことですまされる時代じゃないです。
今日は、これからわずかな時間ですけれども、韓国の康(かん)先生から、お話
を頂きます。それこそ不思議な縁で金光教とご縁が出来られて、金光教の信心に触
れて、それこそ金光教の信心とはこんなに素晴らしいものか、ということから、今
年学院特科を出られました。ちょうど霊祭が終わりまして、翌日例の台風18号が
こちらに来ましたですね。その日に、お見えになるということでしたから、とても
今日は来られないだろうと思っとりましたら、それこそ台風一過、本当に何事もな
かったかのようなお繰り合わせの中にお見えになったわけです。
皆さん、例えば信心するから、台風も来ない、ということじゃないですよ。雨も
降る、風も吹く。けれども、「神様いただきますというような心あらば、あたるこ
となし」という宗教ですよ。金光教は、本当にあの台風のおかげで、この雨のおか
げでということになってくる宗教ですよ。先ほど、私の部屋で康先生御一行の方達
とお話ししたことでしたけれども、私共日本人が、例えば韓国の人達にまたは中国
の人達に、どれだけの迷惑をかけてきているか分からないです。だから、問題は、
そういう意味合いで、今年は、いろんなことの総括をしなければいけない年だと思
います。「どこで、日本がそういう間違った道に入っていったのか」「宗教の歴史
の中で、どこでどう間違ってキリスト教が、例えば人殺しの宗教のような宗教にな
っていったのか」と。私は、この21世紀という新しい年を迎えるには、一つ本気
で反省するところはして、改まっていくところは大改まりをして、21世紀を迎え
なければならないと思います。
私たちは、今、大きな岐路に立たせて頂いております。私は、本当に力のない、
それこそ大海の一滴にもあたらないような私ですけれども、一つこれからは本気で、
この地球上から貧争病のない、そういう世界が生まれてくる、御神願御成就のお役
に立てるように、全生涯を捧げてみたい、と決心させて頂いております。
平成11年9月19日 和賀心デー御理解(親先生)
御理解第33節
お供え物とおかげは、つきものではないぞ。
親が子に無条件にお乳を与えるようなものではなかろうか。
氏子私共も又、無条件に親神に尽くせるように育たねバならぬ。
無条件と無条件の出合い、そこに『天地人一如』の世界が開かれるのです。
(昭56・7・24)
今、成り行きの中で、教祖様のご信心を一つ一つ明らかにして下さり、また、キ
リスト様とも出会わせて頂いて、改めて、お互いが、金光教にご縁を頂いておるこ
との価値といいましょうか、教祖金光大神様の信心の真価というものを感じて頂か
なければならないと思いますね。
例えば、私どもは、今日の御理解でも薄っぺらに頂くわけです。けれども、「お
供え物とおかげは、つきものではないぞ」と、これだけはっきり言い切った宗教が、
他にあると思いますか。私は、そういう宗教は無いと思いますよ。それと同時に、
例えば、このキリスト教です、いや、キリスト教に限らず、一神教というのが、怖
いですね。イスラム教でもそうですが、自分が信じる神、ただ、それだけが、絶対
の神なんです。ですから、それ以外は、全部偶像崇拝になるんです、異端と見なさ
れるんです。例えば一神教の反対は、多神教と言うんですが、皆さん、教祖様はど
っちだと思いますか。それで、教祖様は、どういう表現をされているかというと、
例えば、「薮神小神でも拝んで通れ、一礼して通れ」とおっしゃってるんです。な
ぜ、教祖様は、それが、言えたのでしょうか。または、「宗旨嫌いをするな」とも
おっしゃっています。教祖様の近くでは、その当時、黒住教が大変さかんに発光し
ました。それで、参拝者の人たちが、「黒住教がどうだ、こうだ」と言われたわけ
です。教祖様は、大変不機嫌になられて、「お釈迦様もキリスト様も宗忠の神(黒
住教教祖)も、全部神様の氏子です。自分の子供の悪口を言われて、親が喜びます
か」というような意味の御理解をされていますよ。
だから、私は、それが言える、教祖様のご信心とは、一体何だろうと思います。
結局、教祖様は、信ずる根拠を持っておられたと思います。私は、あえて言うんで
すが、本当に宗教革命をするならば、例えば神名の統一がいると思います。そうい
う意味合いで、例えば「天地金乃神という名前を捨てろ」というなら、教祖様は平
気で捨てられたと思います。教祖様の御信心の御内容からいうなら、神様の名前は、
それこそ何でもいい、という確信です。それが、どういう確信かというと、「この
神様の働きというものが、氏子可愛いの御一念、人間氏子を助けずにはおかんとい
う働きしかない」という確信ですよ。しかも、お釈迦様でも、キリスト様でも神様
の氏子だという見方ができておられるというところですね。
私は、ここ何日間かずっと下痢状態が続いてますが、おかげで、今までどうして
も読めなかった旧約聖書を読ませて頂いています。あの例の1週間でこの地球を創
られる話から始まるわけです。そして人間を作られ、それがアダムとイブだという
ような話から延々とアダムとイブの末代の話が続いているのです。それで、その途
中で出てくるのが、あの有名なノアの箱舟ですね。あんまり人間がだらしない生活
をしますので、全部殺してしまう。それで、地球全体に、大雨を降らして洪水を起
こし、そして、ノアの家族だけは助けられるのです。皆さん、例えば、この旧約聖
書を信じなければ助からんというなら、絶対、今の人たちは、信じられないですよ。
いや、それが、「信じるしかありません」と言うて、信じられる人も素晴らしいんで
すけれども、私にこれを信じなければ助からんというなら、まず100パーセント、
私には信じられない本です。そして、検証してみると、実際にイエス・キリストが
残されただろうという独自な教えは、聖書の中で、10箇条くらいしかないんだそ
うですね。そうした時に、皆さん、私たちの場合、何を信じて、信心の稽古してま
すか。信心とは、信ずる心と書くわけでしょう。
そういう意味合いで、この成り行きを信じていく稽古ということは、何とすごい
ことを私達は、しているのだろう、と思いませんか。しかも、これなら、誰でも出
来ることです。成り行きが信じられたら、「お供えものとおかげはつき物ではない」
と平気で言え、「神名を変えろ」と言うなら、平気で変えられますよ。ですから、
私は、どうでもこの1年の間には、「成り行きは神の働き」という人達が、一つ合
楽の土台になってもらわなければならないし、そういう人達が、せめて百人は、生
まれて欲しい、と願っているのです。私は、今度、この体を悪くさせて頂いて、私
のこれからなすべき御用というのを、はっきりさせて頂きました。それは、いって
みれば宗教革命です。昨日、月例祭の時、あの御祈念の座に着かせて頂いた時に、
「総括と復活」ということを頂きました。いいですか、キリストを復活させるため
には、既存のキリスト教を一ぺん壊さなくては嘘です。教祖様を復活させるために
は、今までの教祖像を取り払うてもらわなければ、分からんですよ。総括と復活は
一緒です。だから、私は、この1年間で合楽の土台が出来たら、どうでも宗教革命
を目指そうと思っています。もちろんこれは、成り行きの中でしか動きませんけれ
ども。ですから、この頃の婦人会でも、私は、宗教の本質を明らかにするというこ
とが、合楽教会にかけられた大使命だと思います、と申したのです。そういう意味
合いで、「成り行きは本当に神様の働きです」と言える体現伝承者の出現を神様が
待っておられると思いますね。どうぞ。
平成11年9月7日 朝の御理解(親先生)
御理解第29節
桜の花の信心より、梅の花の信心をせよ。桜の花は早う散る。梅の花は苦労して
おるから長う散らぬ。
形のおかげを願うだけの信心は桜の花の信心。
心の助かりを願っての信心に御神徳が受けられる。梅の花の信心をすれば花も実も
あるおかげが頂ける。
痒いから掻くのは桜の花の信心。痒いけれどもじっと辛抱する、これが梅の花の信
心。
辛抱しているうちに徳がうけられる。
霊徳はさくらの花の信心。
神徳はうめの花の信心。 (昭51・7・12)
ひと月位前でしょうか、しきりに「際物のおかげ」ということを頂いておりまし
たけれど、この人類二千年の歴史から学ぶというならば、これまでは、際物の繁栄
であったり、際物の助かりであったなあ、ということです。教祖様がおっしゃる
「はやることなければ終わりもなし」というような助かり方、これを本当に証明で
きるならば、前代未聞の助かりになるなあと思います。
そして、今、私どもが、この成り行きを尊ぶということの中で助かっております、
この事実は、一体なんだろうかと思うんです。私は、日増しに、この成り行きで助
かる助かり方とは何と凄いんだろう、と思わされております。しかも、これならば、
生身の人間が、誰でも助かっていく、その確かさです。私は、過去の宗教が、繰り
返してきた失敗の中の一つとして、様々な霊験奇跡を売り物にしたということがあ
る、と思います。確かに、そこには、沢山の人が、集まるわけですけれども、これ
は、皆さんが、冷静に判断して頂くがいいですね。
私は、昨日しきりに、例えば、人間にこの見る目を神様が与えて下さったり、聞
くこと、又は物を食べて味わうこと、又、手足を与えて下さっておるという、この
御恩恵と同じに、人間に理性を与えて下さっておるということは、凄い財産だなあ
と思わされました。初代が、こういう表現をしておられるのです。「合楽理念とい
うのは、理性の判断から得た最高の考えで、全経験を統制する」と。ですから、そ
ういう意味合いで、この理性の範囲の中で全部整理がつくことなんです。例えば、
初代は、「キリスト教は奇跡の宗教で、仏教は思索の宗教」と、一言で言い当てて
おられます。キリスト様でも、お釈迦様でも、悟りを開かれて、布教活動に入られ
るわけです。そして、お釈迦様は、あの難しい難解な仏法を説いて回られるでしょ
う。キリスト様は、反対に奇跡をずっと示して行かれるわけです。
私は、皆さんに、理性的に冷静に判断して下さいって、申し上げたいのは、例え
ば、こういう霊験奇跡というのは、毎日、普遍的に起こりますか、ということです。
これは、合楽の歴史の中にも随分とあります。例えば、空気銃の弾を打ち込まれて、
本当に神様の手術でおかげを頂いたとか、それこそいろんな霊験話はありますけれ
ども、こういう奇跡は、時々刻々に普遍的に頂けません。それこそ、宝くじに当た
るような難しさです。そうして見た時に、この成り行きの中に神様を感じていく、
初代が「さわればそこに暖かみを感じ、つつけば血がとび出るような生々しい神様」
と表現なさっているように、日々の生活の中に、神様とは、恐れ入ってしまうね、
と感じ続けていけるというのは、何と凄いことではありませんか。そして、本当に
神様をいつも感じていけるというなら、この成り行きの中でしか感じられないので
す。そして、どうでしょうか。例えば合楽でもそうですが、そういう霊験奇跡を頂
いた人というのは、信心が全然続いていないのです。確かに奇跡が起これば、そこ
に甘い砂糖に蟻が集まる如くして人が集まってきますよ。けれども、それはあっと
いう間に消えて無くなるものです。それを総称して、形のおかげを願うだけの信心
は、桜の花の信心と言われるのです。本当に際物でしょう。そういう意味で、人類
二千年の歴史から学ぶなら、又は金光教百何十年の歴史から学ぶというなら、この
際物の助かり、際物のおかげというものが、いかに虚しいものか、一時的なものか
ということを知ることです。
そして、私は、この17年の中で、私が、成り行きの中で助かってきた、この助
かり方の確かさを思うんです。私は、今朝改めて、神の比礼が見え出した、という
実感がするのです。教典の88ページを開いて下さい。今日気付いて頂きたいのは、
教祖様が、そこに至られるまで、何年かかられたかなんです。そこに、『当年まで
で神の頼みはじめから十一か年に相成り候』とあります。例えば教祖様が神様を大
事になさる、そのあいよかけよの中で教祖様の信心も高められる、神格も高められ
る。それは、神様の比礼が、働きが、最初は例えば、十の働きしかできないものが、
五十、百、千となってくるわけです。私たちが、本気で成り行きを尊ぼうとしだし
て、どのくらいでしょうか。私は、私の中で本当に、この成り行きの比礼が見え出
したという感じがするんです。ですから、この成り行きの比礼が見え出すところま
では、本当にお互いが辛抱して頂きたい、苦労して頂きたい、と思います。これな
ら、苦労のし甲斐があり、辛抱のし甲斐があります。今日の御理解29節を頂いて、
それを神様が頼まれるような感じがしてならないのです。私は、この成り行きを尊
ぶということの確かさ、普遍性を思います時に、この助かり方が、間違いなく21
世紀の助かりのキーワードになる、と思いますね。どうぞ。
平成11年9月6日 朝の御理解(親先生)
御理解第63節
一粒万倍といおうが。一人がおかげを受けたので千人も万人もおかげを受けるよ
うになるから、よい手本になるような信心をせよ。
『手本になるような信心』とは、どんな苦しい時でも、神愛を思うたら有難涙がこ
ぼれるような、どんな場合でも神にお礼が言えるような信心である。それが出来た
ら『一粒万倍』のおかげが受けられる。
渋柿は 皮をむかれて
つるされて
白粉ふきつつ 甘くなる哉
問題ハ皮をむかれるとき、つるされながら渋がぬけてゆくとき、神の心の奥がわか
るとき。 (昭52・7・15)
良い手本ということになりますと、そんな真似は、とても私達には出きないとい
うことであってはならないと思うのです。ですから、良い手本の第一条件として、
誰でもが真似が出来るということでなければならないと思います。そういう意味で、
私は最近、この受けるということですね、これは、凡人が出来る唯一の技だと思う
ようになってるわけです。いや、むしろ無芸無能無才の人の方が、この受けるとい
うことは出来やすいのです。例えば、今、プロ野球で話題になっております、松阪
という投手ですが、10年に1人という逸材だそうですね。ですから、そういう人
になろうと思っても、それこそ宝くじを当てるような難しさがあります。けれども、
この受けるということは、その気になれば誰でも出来る唯一の道だなあ、と思うん
ですね。どうでしょうか。
昨日、ある信者さんがお参りになりまして、「一言お礼を申し上げたくて」と言
うて、お届けがありました。それがなんと、自己破産御礼なんです。「10年前の
私を思うてみて、こんな問題を有り難く受けられるなんて考えられません」と言う
わけです。それが、この方だけじゃなくて、その奥さん、そして子供さんも、そう
言うんだそうです。お父さんが、「こんな親で済まんやったね」と、娘さんに言っ
たら、「いやお父さん、こんな子供に育ててくれて有り難う」と言うんだそうです。
その子供さんが、今いろいろ親に援助してるんだそうです。成り行きというものは、
なんとすごいのだろうかというような働きを頂いて、今日のミニ御理解そのままに、
「どんな苦しい時でも、神愛を思うたら有難涙がこぼれるような、どんな場合でも
神にお礼が言えるような」ということになっていかれているのです。事実、私も1
7年間、成り行きを尊ぶことをやってきて、これは受けられん、これは出来んとい
うことが1回もありませんでした。これは、その気になれば、凡人が唯一出来る道
だ、と私は思います。
私は、改めてキリスト様の御伝記を読ませて頂いて、キリスト教は愛の宗教とか
言いますけれども、全然違う、と思いました。むしろ、キリスト様は、もう極限状
態まで受けられたお方ですよ。その印が、あの十字架だ、と思います。十字架にか
けられる前の晩に、もう既にキリストは、神の予言がそういうように成就するとい
うことを知っているわけです。ですから、前の晩に、「父よ、願わくばこの杯を私
から取り除いてくれませんか」と3回、祈られるのです。そして、「いやそれでも、
これが御心なら受けます」と言うわけです。いうなら、「もし、この成り行きを取
り除けるものなら、取り除いて下さい」と言われ、さすがのキリスト様も、いよい
よ十字架にかけられる時に、「神様、私を見放されたのですか」と言われ、「神様、
あなたの御心に委ねます」と言って息絶えるのです。
これは、ちょうど初代の、あの188日間のご修行に合致するような気がするん
です。それこそ、地獄のような毎日でした。あまりにも苦しいものですから、初代
も「私の説いてきた一切神愛は本当だろうか」と迷われます。けれども、即座に次
なる成り行きを頂き、神様の「そこを貫いてくれ」との願いを感じられて、そこを
貫かれ、一切神愛の決定版ともなっていくのです。
だから、キリスト様は、本当に極限状態まで受け抜いた人ですよ。だから、キリ
ストのような、初代のようなことをせよと言うのじゃないです。教祖様の最後のお
知らせではないですが、キリスト様でも、教祖様でも、初代でも、「人民のため、
大願の氏子助けるため、身代わりに神が」させた人ですよ。そして、万人がみやす
うおかげが受けられる、その道を残して下さったのです。それが、成り行きを尊ぶ
という道であり、この階段を一段一段登る限り、誰でも登れるのです。そういう意
味合いで、教祖様のあのくぼみの図です。これなら、本当に無芸無能無才の人の方
がしやすいです。しかも、この受けることによって、事が成就していくことの確か
さです。初代が「合楽理念は簡単です、明瞭です、しかもおかげが確かです」とお
っしゃったんですが、「確かです」ということは、何か簡単におかげが受けられる
ような感覚でしたけれども、そうじゃないですね。確かなおかげが受けられる、と
いうことですよ。これが、本当に、実証されたら、世の中の価値観が全く変わりま
すね。これが、私は、21世紀のキーワードになる生き方じゃないか、と思います。
それこそ「一人がおかげを受けたので千人も万人もおかげを受けるようになる」、
一つその手本に、私達がどうでもならせて頂きたいと思いますね。どうぞ。
平成11年9月5日 和賀心デー御理解(親先生)
御理解第6節
目には見えぬが、神の中を分けて通りおるようなものじゃ。畑で肥をかけておろ
うが、道を歩いておろうが、天地金乃神の広前は世界中であるぞ。
これは教祖さまの神観でありましょう。たしかに神愛の中にある私共であるはず
なのに、これは私の場合ですが、こわい所を通っている様に、又は薄氷の上を歩い
ている様な、ヒヤヒヤする様な思いで過ごして居る今日此頃であります。
こわいと思う心が我が心の中にあるからです。
いよいよ改まり、いよいよ磨き、何処におっても神の広前として、又、神の中を分
けて通りおる様な実感をもって過ごせれるおかげを頂きたいと、日々精進させて頂
いております。 (昭44・7・23)
私達の助かりというのは、観念的に分かったから、助かるということはないです
ね。同行二人とか、または教祖様は、「疑いを放れて広き真の大道を開き見よ。わ
が身は神徳の中に生かされてあり」というようなことを言われるんですけれども、
助かりというのは、どれだけそれを実感出来るかなんです。そういう意味合いで、
今日の御理解第6節などは、本当に教祖様の日々の生活の実感だ、と思うんですね。
ですから、どうしたら、こういう実感が頂けるようになるのかです。これは、どう
いうことかと言いますと、これも、また初代の独特な表現だと思うんですけれども、
「天地のリズム」を聞き続けるということです。
私は、いろんなお話も聞かせて頂き、本も読ませて頂くんですが、「神の心を心
とする」という表現も、初代独特の表現ではなかろうかと、最近思うんです。「神
の心を心とする」ためには、「神様が水の性なら私達も水の性に、神様が火の性な
ら私達も火の性に」と。これは、もう椛目時代からおっしゃっておられました。で
すから、私も、言葉では覚えてますけれども、実感として、今まで、どうもぴんと
来なかったんです。けれども、最近、私は、ようやくそれが実感出来るようになっ
たんです。それは何かと言いますと、結局、成り行きと同化するということですよ。
そうでしょうが。「神様の心を心とする」ということは、その成り行きと同化する
ということです。ですから、これを、教祖様の信心で見てみますと、「天地のしん
と同根」と言われる、その時代からだろう、と私は思うんです。
昨日、宮崎の古瀬さんという人のお取次をさせて頂きました。この不景気を反映
致しまして、今度、店を整理することになりました。それこそ頭がパンクしそうな
ぐらいに、いろんな問題を抱えておられました。「古瀬さん、ここまで来たら、も
う成り行きに任せなさい。あなたの知恵才覚でして、ここまでじゃろうが。ここで
行き詰まったんだから、一つこれから本気で成り行きの階段を登ってごらん」と言
っておりました。それが、ここ1カ月ぐらいですか、もう毎日信心の驚きと喜びを
感じておりますと言うわけです。そして、この成り行きに任せるということが、こ
んなにも楽なんですか、ということを言われるのです。それこそ思い以上のことに
なってきておるわけです。そういうお届けが、昨日ありました。
例えば、いろんな霊験奇跡を頂いて、「神様の働きは、間違いない。神様は、本
当におられるなあ」というようなことがありますよ。けれども、どうですか、これ
なんか、宝くじを当てるようなもんじゃないでしょうか。金光教でも、いろんな霊
験奇跡が起こってまいりました。椛目時代から言えば、私達も、そういうものを随
分見てきました。それよりも、日々の生活の中に、神様を感じ続けるということの
方が、ありがたいではないですか。例えば私の、今度のキリスト体験なんかもそう
でしょう。本当に驚くような働きの中で、私が、キリスト様と出会わせて頂いたり、
そういう成り行きを感じる時に、これは、神様が、私に何かを願っておられるとし
か思いようがないわけです。
ですから、問題は、ここです。「いよいよ改まり、いよいよ磨き、何処におって
も神の広前として」と言われる、その改まり、研くということです。この頃も、あ
るご婦人が、「先生、私はどこを改まらなきゃいけんとですか」とおっしゃったん
です。皆さん、よく、「自分のことは、自分が一番よく分かる」と言いますが、自
分のことが、一番分かっとらんです。「あんたは全部改まらなければ」と言いたい
ぐらいでした。本当に、お互い、都合のいい時には、自分を反省するとか、自分の
足元を見るとかといったことは、全然していないですもんね。
だから、そういう意味合いで、難儀の鎧兜を着けた時というのは、私は、自分の
足元、手元を見る絶好の機会だと思います。そういう意味合いで、私は、初代のお
手代りをさせて頂いて、この17年の間で、それをしてきたと思います。ですから、
それだけ、私は、皆さんよりは、神様と同質化してきた、同化してきておると思う
んです。だから、皆さんが、例えば1日に1回神様を感じるところを、私は神様を
1日に10回感じている。教祖様は、例えば1日に千回神様を感じておられるので
す。どこが違うのか。たったそれだけのことですよ。結局、神様に心を、アンテナ
を立てておるか、否かの違いでしょうが。「信心とは、わが心が神に向かう」と言
われますけれども、わが心が、神に向いておるかどうかの違いですよ。
今日は、今から久富正義先生のお話を頂くことになります。正義先生は、初代に
直に触れた方です。本当に貴重なお話です。だから、そういう意味で、初代がどう
いう信心をなさったのか、どういう助かり方をなさったのかという、一人の証言者
であると思いますね。どうぞよろしくお願いします。
平成11年9月4日 朝の御理解(親先生)
御理解第23節
氏子が神と仲ようする信心ぞ。神を恐れるようにすると信心にならぬ。神に近寄
るようにせよ。
信心が好きになることです。
おかげが好きな人が多いが、神さまは、私共の思いどおりのおかげを下さることは
ないからです。
思いどおりにならぬと信心がいやになります。信心が好きになり、修行が好きにな
りお徳を受けてまいりますと、思い以上のおかげがうけられます。
いよいよ神さまと仲ようなるために、いよいよ神さまに好かれる私になることです。
魅力ある私になることです。 (昭45・7・5)
教祖様と初代に共通しておりますことは、何か問題がある度に、神様に近付いて
いっておられるということです。ところが、私達の場合、思い通りにならないと、
段々、神様の心から外れていくというか、それこそ「ままにならぬとままばちなげ
りゃ そこらあたりはままだらけ」というようなことになるわけです。それでも、
そういう中で稽古させて頂きよるうちに、段々、神様の思いが分かってまいります
と、教祖様が、自らの体験を通して、御教え下さった、「あれもおかげであった、
これもおかげであった」ということになってくると思います。
今、キリスト様のことをもっと知りたいというようなことから、いろんな角度の
キリストに関する本を読ませて頂いています。キリスト教の人達にとっては根本典
籍と言われる、あの聖書すら、誰がいつ伝えたのかすら不明なんだそうですね。確
かに、誰々の伝えとありますが、キリストが亡くなって150年後ぐらいに、それ
を書き写してるんだそうです。キリストが、歴史的に存在したということですら、
クエスチョンマークが付くのだそうです。いや、私は今信じてますよ。間違いなく
キリストという方はおられた方であり、神様が差し向けられたお方だと、私は確信
します。いや、私が分かってもらいたいのは、金光教にはこれだけの宝があるとい
うことです。教祖様自ら、生まれた時から亡くなられるまでのことをびっしり書き
残しておられるということは、一体何だろうかと、私は改めて思います。何のため
に神様が、「書き残せ」と言われたのか、その御神意は、一体何だろうかと思いま
す。私達は、宝の持ち腐れにしていないでしょうか。その最たることは、教祖金光
大神様の助かりようというものを、私達はあまりにも知らないということです。
その一つが、教祖様が、後々には「日柄方位は見るに及ばず」と、365日がお
かげ日だというようなことを言われ出すんですが、いわゆる恐い金神様から、いつ、
そういうことになられたかということです。教祖様の七墓を築かれる時の体験とい
うのは、おどろおどろしたものです。だから、私どもに、この実感がどこまである
かだと、思います。たとえば、長男が亡くなられ、長女ちせさんが亡くなられます。
この時なんか、2人の医者にかけておられます。昔、医者にかけるということは、
大変なことだったそうです。そして、そういう苦い体験を通して、嘉永3年の、次
男の槙右衛門さんの病気の時には、少しの油断もなく、あらゆる手を施されますが、
亡くなられます。そして、飼い牛が、同じ月日に、2年続けて亡くなり、金神の恐
さというのが、もう染み込んであると思うんです。そして、教祖様自ら、42歳の
大患にかかられますよ。だから、隣近所の人達が、「やっぱりあの家は呪われとる
家だ」とか、いわゆる金神七殺を噂します。ですから、安政5年、安政6年ぐらい
の時に、とても、「日柄方位は見るに及ばず」なんていう心境を開かれるはずはな
いです。
今日の御理解で、私が言いたいことは、そういう恐い恐い金神様との関係が、慶
応3年になりますと、次のような関係になっておられるのです。慶応3年と言えば、
安政6年の立教神伝から、およそ10年、経っています。教典の48ページを広げ
て下さい。そこに、「一つ、日天四の下に住み、人間は神の氏子。身上に、いたが
(痛い所)病気あっては家業できがたなし。身上安全願い、家業出精、五穀成就、
牛馬にいたるまで、氏子身上のこと、なんなりとも実意をもって願い」と書いてお
られます。そういう親密な、それこそ親子のような関係になっておられるのです。
これは、初代を見て頂くと分かりますが、教祖様と神様との関係は、問題のある度
毎に、教祖様が神様に近付いていかれ、その関係が深くなっていかれたのです。だ
から、お互いが、本当に、問題がある度毎に、神様を感じる、だから、有り難いと
いう答えが出るまでは、その問題を大事にして頂きたいと思うんです。「神様の、
こういう御都合であったか」という答えを出すまでは、一つ、その問題を大事にし
てもらいたい、と思うんです。そうでなければ、いつまで経っても、私達と神様と
の距離が縮まっていきません。
ここで、「神と仲良うする信心ぞ。神に近寄るようにせよ」と教えておられます。
教祖様でも、初代でも、確かに、問題がある度毎に、神様に近付いておられます。
そして、「あのおかげで、このおかげで」ということにしてあるということを、今
日は一つ分かって頂きたいわけです。けれども、最初から、神様と仲が良かったわ
けじゃないですよ。教祖様にとって、最初は、それこそ程遠い、いやむしろ恐い神
様でした。その教祖様と神様とが、どういう事柄で、こうやって仲良うなっていか
れたかということを、お互い、知りたいと思います、分かりたいと思いますね。ど
うぞ。
平成11年9月3日 朝の御理解(親先生)
御理解第67節
何事もくぎづけではない。信心をめいめいにしておらねば長う続かぬ。
地球はじっとしているようで、実はすさまじい回転をつづけているように、何事も
変わったことはないようで実は釘づけではないのである。
だからこそ天が地になるほどのおかげ、白が赤になるほどの奇蹟もまた生まれるの
である。その動きが有り難い方へ有り難い方へと向かって進展してゆくような信心
が、求められる所以であります。故にめいめいの信心が生き生きと成長してゆかね
ばならぬ。
他人を見ず自分だけを見つめて進め。神さまと自分だけの世界を開け。
(昭46・7・18)
神様の英知に触れてからのことでしょうけれども、初代の表現の中に、どうして、
こんな表現ができられるんだろうか、と思うことがたくさんあります。それこそ小
学校しか出ておられない初代が、一言で、見極めておられるんです。例えば、「仏
教は思索の宗教だ」と、「キリスト教は奇跡の宗教だ」と言われるんですけれども、
本当にキリスト様が分かれば分かるほど、確かに奇跡の宗教なんです。
今日の、このミニ御理解でもそうです。ビックバーンから今日の宇宙までが明ら
かになったり、この地球46億年の歴史が明らかになったのは、ほんの最近です。
それは、本当に奇跡の連続だそうです。太陽と地球の微妙な距離関係で、地球に水
があり、そこに生命体が生まれ、人間に進化してくるというのは、本当に奇跡なん
だそうです。その当時、こんな事は、分かっていませんでした。ここで、初代は、
「地球はじっとしているようで、実はすさまじい回転〈進化〉をつづけている」か
ら、「天が地になるほどのおかげ、白が赤になるほどの奇蹟もまた生まれるのであ
る」とおっしゃるわけです。今日の御理解は、信心の確立を言われております。特
に、激動する、この時代に生きぬきます私たちが、「私の信心を確立する」という
ことは、「一切神愛の確立」です。それを宇宙が証明してるじゃないか、というこ
とです。人類の進化、宇宙の進化というのは、有り難い方に有り難い方に、助かる
方に助かる方に向かってる、ということです。それをまた、初代は、「合楽理念は
人類の実生活と歴史とを一貫するところの人類進化(幸福)の根本原理である」
(「合楽理念によせて」)とも言っておられます。
人類の、この二千年の歴史の中で、いろんな歴史的人物が出てきましたが、この
キリストほど、我々の歴史に多大な影響を与えた人物はないですね。それと言いま
すのも、西洋文明というのは、キリスト教文明です。例えば芸術にしても、音楽に
しても産業にしても、全部、源流はキリスト教です。そして、これほどの影響を与
えたイエス・キリストが、歴史的事実の中で、その実在さえ、クエスチョンマーク
(?)なんだそうです。たとえ実在したとしても、このキリストについての資料と
いうのは、わずかしかないそうです。それで、キリスト像を描こうというのですか
ら、とんでもないことですよ。そして、私は、今日、改めて、金光教教典を開いて、
感動しました。教祖様の場合、完璧に残ってるのです。私どもは、もう一遍、教祖
様がせっかく残して下さった「覚書」「覚帳」の事実を再認識しなければいけない、
と思います。それと、もう一つ、私が感動しましたのは、ある方が持ってきてくれ
た、イエス・キリストの映画を見て、最後の場面でした。最後に、十字架にかから
れるわけですが、キリスト教では、それを、キリストが人類のすべての罪を背負わ
れて、犠牲になられた、と言われるのですね。あれは、そうじゃないです。それが、
なぜ分かるかというと、初代とダブったんです。初代は、あの一番最後のご入院の
時、一週間ぐらいでしたが、本当に、ベッドにくくられたんです。全くキリストで
した。それとダブりました時に、キリストという方も、本当に、身を持って「一切
神愛」を証明した人なんだ、と私は、見たんです。初代は、188日間のご修行の
一番苦しい時に、「私が説いてきた一切神愛は、本当だろうか」と迷われました。
キリスト様も、前の晩に、悩まれ、「神よ、もし許されるならば、この苦杯を私か
ら取り除いて下さい」と、3回祈られた、と言われます。まさに人間キリストです
よね。神様なら、そんなこと言わんでいいわけでしょう。私は、十字架上のキリス
トの姿を見せていただいて、キリスト様は、最後に、「これとても神様の働き、神
様のご都合の中のことだよ」ということを示しておられる人だなあ、と思うたら、
まさに「一切神愛」なのです。教祖様が、「一生が修行じゃ」と言われるが、教祖
様も、大坪総一郎も、キリスト様も、身をもって「一切神愛」を証明した人ですよ。
そういう意味合いで、元をとって道を開いて下さった方々です。例えば、キリスト
教の信者さんたちが、人から悪口雑言を言われた時に、キリスト様の十字架上の姿
を思い出すといいですよ。これくらいのことをありがたく受けるのは、簡単なこと
でしょうが。初代の、あの188日間のご修行を見たら、これくらいのことを頂く
のは、簡単なことです。そして、教祖様の最後のお言葉を読んで下さい。「人民の
ため、大願の氏子助けるため、身代わりに神がさする、金光大神ひれいのため」と
あります。本当に、教祖様も、初代のあの修行も、キリスト様も、身代わりの修行
です。
これから、限りなく時代は変わりましょうけども、ただ一つ、変わらないもの、
それは、進化し続けるんだ、ということです。だから、お互いが、「一切神愛の確
立」を実感、実証していくこと以外にないなあと、改めて思います。どうぞ。
平成11年9月2日 朝の御理解(親先生)
御理解第58節
人が盗人じゃと言うても、乞食じゃと言うても、腹を立ててはならぬ。盗人をし
ておらねばよし。乞食じゃと言うても、もらいに行かねば乞食ではなし。神がよ
く見ておる。しっかり信心の帯をせよ。
はやり唄にも「松葉の模様が気に入った枯れておちるも二人づれ」この打ち込み
があれバ信心も本当なものだが、又の文句に「紅葉の模様が気に入らぬ紅葉色づき
ゃ秋が来る」と言うが、これではならぬ。信心も少しはわかり佳境に近づいて来る。
何かがある、もう動揺する。信心の帯がシッカリ出来ておらぬからである。信心は
神が見給う聞き給う世界に生きぬくことである。
(昭46・7・9)
この御理解58節にしましても、教祖様の譬え話みたいに思うておりましたけれ
ども、教祖様の実体験なんですね。教典の93ページを開けてください。これは、
明治4年ですが、この頃から、神様の本格的な教導が始まり出す、という感じがす
るんです。そういう時にどういう事があったかと言いますと、その15章の2から
読んでみましょうかね。
立教神伝から、十三か年になり、いろんな事があろうけれども、心配するなと仰
るわけです。そして、あられぬ噂が立つわけです。それは、どういうことかと言い
ますと、出社のものが、強盗に行ったというのです。教祖様のお広前が、大変、御
比礼が立ち、人がどんどん集まり出し、それで、そういうあられぬ噂が立つわけで
す。しかも、当時として、押し入り強盗というのは、極刑なんだそうです。そして
実際、後ではそういう取り調べみたいなのがあるわけです。それで、お参りもどん
と減ります。そこで、「浅尾お上も聞き合わせに出され。どこにも何事もなし、う
そなり」という事になります。教祖様の御内容が分かり出してみます時に、私は、
この御理解ひとつひとつの重みを感じます。
昨日も、ある方のお取次ぎの中で、ある事ない事、噂をされておられるのです。
さすがのその人も、よたよたしておられます。ですから、本当にしっかり信心の帯
をしておかなければ、赤面弁慶になって言い訳をしたり、くうっときて落ち込んだ
りしますよ。だから、教祖様がいかに、日頃信心の帯をしっかりしておられたかと
いうのを思います。
これは、夏の御大祭の前日でした。秋永先生が、「こんなものが手に入りました
から」と言って、持ってきて下さいました。綴れ帯というて、帯としては最高級の
ものだそうです。その上に、別な方から、狼の毛で作った筆、これも最高級なんだ
そうですが、それも頂きました。例えば、これは、初代のお話の中にあるんですが、
同じ信心の帯でも、只今修行中という時には、荒縄時代がある、それこそ浴衣のよ
うな、よれよれ帯をする時もある。そういう意味合いで、私が、今、最高の帯を頂
いたという事は、例えば、夏の御大祭なら、御大祭を私の事として、「これで神様
が何を分からして下さるか」というような取り組みをすれば、絶対そのたび事に信
心の格は上がります、ということではないでしょうか。
今月は、御霊月です。本当に、どうしたら御霊様に喜んでいただけるだろうか。
今度の御霊祭りはどこに焦点をおこうか。それを思い続け、願い続けてみてくださ
い。絶対、ひと力を受けられます。そして、信心の力というのは、絶対、一朝一夕
にしては受けられないです。例えば、うちの修行生の先生達が、「いや、布教した
ら、ちゃんと頑張って、力を受けます」と言いますが、それでは、絶対に受けられ
ないのです。本当に、信心というのはコツコツとした積み上げをしていかないと、
本当の力というものは、頂けるものじゃないなあ、と思います。そういう意味合い
で、大奥様なんかが、運命改善、体質改善、性格改善の第一人者だろうと思います
ね。大奥様は、結婚する前は病み袋というぐらいに体が弱かったんです。その方が
初代と結婚なさって、こうやっておかげを頂いて、それこそ大奥様が休まれるのは
十年に一回ではないですか。運命改善、体質改善、性格改善というのも、ある日突
然ということは絶対、ありません。
今朝の御祈念の時に、キリスト様がこれを分かってくれよと仰ってたのかと思う
て、私は改めて感動したことがありました。キリスト様が、「あれはしちゃできん
とか、これを飲んじゃできんとか、結婚しちゃできんという、そんなことは、説い
ていない」ということを伝えてくれという事であったと思うんです。そしてキリス
トから学ぶというなら、合楽では、何でもしていいんだけれども、せめて、この一
年ぐらいは、あのキリスト教の特にカトリックの方々の、あの神に身を捧げた者と
しての精神で、シッカリ信心の帯をさせていただきたいと思います。例えば、私が
初代のお手代りをして、第一にテレビなんか見たいとも思わなかったです。見ては
いけないというのではないですよ。けれども、信心の土台ができるまでは、そうい
う時代も一時期にはいるんだと思うんです。また、キリスト教が改革していくとい
うなら、この生身の人間が、生身を持ちながら、その身そのまま助かる道を明らか
にしていかなければならないと思います。
本当に大変な時代にさしかかり、また、それこそ輝かしい21世紀をお互いが迎
えさせて頂けるためにも、ここだけはというところをどうでも身に付けていきたい
と思います。そのためには、せめてこの一年、「楽はせんぞ」という、信心の帯を
シッカリさせていただきたいと思いますね。どうぞ。
平成11年9月1日 月例祭御教話(親先生)
先ほど月例祭前のお届けの中で、一番最初に吉富さん達ご夫婦のお届けを受けさ
せて頂きました。そして、「今、全然夫婦喧嘩をしないことに気付かせて頂きまし
た」と言われるんです。私も、全く同じ実感なんです。何時の間にか、という表現
が、私は一番ぴったりだと思うんですけれども、合楽の場合は、その助かりの根拠
性があると思うんです。結局、成り行きの階段を一段一段登らせて頂いて来ておる
ということなんです。
その次の方は、宮崎の方でしたが、突然、今はやりのリストラにあわれたのです。
それで、夫婦で、「これはどういう御神意だろうか」というて、この教典を開かれ
たんだそうです。そうしたら、「信心する者は、木の切り株に腰をおろして休んで
も、立つ時には礼を言う心持ちになれよ」と頂かれ、「不平を言うどころじゃない。
10年間、腰掛けさせて頂いたんだから、今日はお礼参りに行こう」と言うて、今
日はお礼参拝させて頂きましたというお届けがありました。
私は、この成り行きの中で事が成就して行く、成り行きの中で、ものが育ってい
くということの確かさを感じます。初代が「合楽理念は簡単です、明瞭です、しか
もおかげが確かです」と言われたんですが、その「確かです」という意味が、よう
やく最近分かってきました。このおかげの頂き方は、壊れようがないんです。この
道を歩いていくならば、教祖様がおっしゃる、子孫繁盛の道を歩けるだろうなあと
いう手応えを感じさせて頂いております。
これは、私の中でもう一つ整理がついておりませんので、皆さんには唐突に聞こ
えるかも分かりませんが、私の実感ですから、やっぱり聞いて頂かないわけにはい
かないと思うんです。先月1日に頂きましたのは、「天地金乃神は宗旨嫌いをせぬ。
信心は心を狭う持ってはならぬ。心を広う持っておれ。世界を広う考えておれ。世
界はわが心にあるぞ」という御理解でした。ですから、先月は一つ本気で大きな信
心、大きな願いを持たせて頂こうというようなことでした。そういう一つの成り行
きのレールの中で、これは、2カ月ぐらい前から、どういうわけか、キリスト様が
私にずうっと関わってみえる感じがするんです。これは、一体何だろう、と思いま
す。たとえば、この合楽理念という階段を登らせて頂いて、ようやく教祖様に辿ら
せて頂きました。今、教祖様という方が、私の中で段々身近になっていっておるの
ですが、教祖様の御信心というものが明らかになった時点では、お釈迦様なり、キ
リスト様なり、他宗の宗祖、教祖のお勉強もしていくことになるんだろうなあと思
っていたんです。ですから、後は5年、10年、たっぷり時間がかかるだろうとい
うようなものもあったんです。そして、研修の時、何かイエス・キリスト様が、合
楽に関ってみえておるような気がすると言うて、部屋に戻りましたら、秋永英治さ
んが突然やってきて、「親先生、今度の30日に、ぜひ合楽に、お話に行きたいと
いうキリスト教の方を連れてきていいでしょうか」と言うのです。それから、不思
議な出会いもありまして、お出で頂くことになりました。
私は、その方のお話を聞かせて頂きながら、これが先月でなかったならば、私は、
全然、違う聞き方、見方をしておると思うんです。ですから、私は、このイエス・
キリスト様が、何か私に頼んでおられるという気がしてならないんです。まだ2、
3日のお勉強ですけれども、私は、改めて、聖書も一気に読ませて頂きました。そ
して、分かりますことは、イエスが、「本当の私を現してくれ」と言われるものを
感じるんです。例えば、あの処女受胎ですね。ある本には、「当時の時代背景的に、
処女受胎説でなければ、偉人や、預言者として受け入れられないから、処女受胎と
いうものが生まれた」と書いてありました。ところが、教祖様は自らが、「私は百
姓の次男として生まれて」というところから出発して下さっています。そして、教
祖様の御一生を辿ってみます時に、最後の御言葉です。それは、「人民のため、大
願の氏子助けるため、身代わりに神がさする、金光大神ひれいのため。書きとめ」
という御言葉でした。そして、キリスト様は、人民のために、あの十字架にかから
れたんです。そうしてみた時、教祖様の御一生のご修行の意味合いというものが、
私は、分かったような気がするわけです。教祖様は、普通の生活をしながら、それ
こそ生活の痛みを感じながら、家業の中に起こってくるすべての事柄を信心の行と
され、生神になられ、人民のため、人間の究極の助かりを示されて、御一生を終え
られたのです。
その方の講話を一時間ぐらい聞きまして、その後、質疑応答をしました。まあ、
ざっくばらんに質疑応答があったんですけれども、その中で、例えば復活とか、モ
ーゼの出エジプトの話にしても、「信じるしかありません」と言われるんです。そ
の信じる根拠性、助かりの根拠性というようなものが、ないのです。それに比して、
合楽の信心の場合は、助かる根拠性があるんです。それは、成り行きの階段を一段
一段登っていってのことですから、誰でもが助かる根拠性があるのです。
そのためにも、この成り行きを頂いていくという、その基本的姿勢として、どう
でも「楽はしません」というものがいります。私達は、生身の人間です。ですから、
やっぱり楽な方に流れてしまいます。どうも、成り行きを自分の都合の良い方は頂
くけど、都合の悪い事はいい加減になっていないだろうかと思わせて頂くんです。
ですから、せめてここ1年、来年の10月まで、一つ「楽はしません」という姿勢
を、お互い持ったらどうだろうかと思います。
皆さんも一つ心にアンテナを張ってみて下さい。また今月は御霊月でもあります
ので、そのアンテナも立てて、今月はおかげを頂きたいと思います。どうぞ。
平成11年9月1日 朝の御理解(親先生)
御理解第37節
生きておる間は修行中じゃ。ちょうど、学者が年をとっても眼鏡をかけて本を読
むようなものであろうぞ。
花の生命は短くて 苦しきことのみ多かりき
信心がないなら、この世は苦の世、苦の世界。信心しても御利益を追うのみの信心
なら、やはり修行がつらい。
信心を求めての苦労なら、力を受け徳が身について行くのがわかるようになるから、
楽しい苦労である。これが真実の修行になる。
楽をしようには楽ハなく、楽ハせんぞの信心に極楽がある。
清く生きようとするから難しい。此の身このまま助けて下さる神様である。すなわ
ち、即身成仏を願う信心である。 (昭51・7・20)
教祖様の御一生に致しましても、初代の御一生にしましても、まさにこの御理解
の通りであったなあと思います。教祖様は、安政6年に立教神伝を受けられて、た
だの一度だけで、終生御自宅から外に出られることはなかったんだそうです。だか
ら、そういう門外不出の行をせよということじゃございません。確かに「もとをと
って道を開く者は、あられぬ行もする」とおっしゃるんですが、そういうご信心の
ご苦労のおかげで、「後々の者は、みやすうおかげを受けさせる」と言われる、凡
人がみやすうにおかげが頂ける道が開けたのですから。
これは、玉水の初代が「信心すると、今までしたいと思っておったことがしたく
なくなり、したくないと思うておったことがしたくなる」とおっしゃったんですが、
結局、価値観が変わるということです。だから、今あなたの生命が何を求めるかと
いうのが、一つあなたの信心のバロメーターになるんじゃないでしょうか。ですか
ら、これは、私があまり好きな言葉じゃなかったのですが、「楽をしません」とい
うことが、やっぱり合楽理念を身に付けていく基調になると思うのです。そして、
「楽をしようには楽ハなく、楽ハせんぞの信心に極楽がある」のです。また、信心
しても、楽をしたいための信心なら、やはり修行がつらいですよ。そして、ちょっ
と楽になると、いよいよ楽を求めるというものが、私達の本性の中にあるわけです。
ですから、どうでも、お互いの価値観が、変わっていくおかげを頂かなければなり
ません。
今、私に神様が、また違った世界を見せて下さっています。それと申しますのも、
ここ一月位、成り行きの中で、キリスト様が私に関ってみえるようなものを感じる
のです。今、こうやって、教祖様のお勉強をさして頂いてますが、この金光教教典
は、21世紀の人類の指針になるほどのものですよ。キリスト教で言えば、聖書で
すが、私どもがそれほどの金光教教典にかける情熱に比して、このおとぎ話に過ぎ
ないような聖書にかける、キリスト教の皆さんの情熱は、大変なものだなあ、と改
めて思いますね。そして、キリスト教が今日まで、ここまで広まってくるというこ
との源流と言いましょうか、彼らをここまで、かきたてたものは、一体何なんだろ
うか、と思います。今度、これらが私の中で一応整理されましたら、段々その話も
していくことになろうかと思います。
皆さん、先月の一日に頂きました御理解を憶えておられますか。御理解第9節で
したね。ですから、今までの私とは、もう全く違う取り方、感じ方になっておった
と思うんです。私の過去の見方でしたら、この20世紀の諸悪の根源はキリスト教
ですよという批判的な見方で終わっていたでしょうけれども、この一連の成り行き
を見ます時に、キリスト様が、何かを頼んでおられるとしか思えなかったのです。
また、天地の親神様が、その時代に必要だから、イエス・キリストを差し向けてお
られるわけです。これは間違いないですよ。その時代時代に、いろんな宗祖、教祖
が出ておみえになりましたが、その時代にふさわしい人を神様が差し向けておられ
るわけです。そうして見た時に、神様が何を分かれとおっしゃっておるのか、私に
何を訴えておられるのか、と求めました。
そうしました時に、私は改めて、金光教祖の偉大さと合楽理念の素晴らしさに至
るのです。21世紀は、間違いなく金光の思想になりますよ。また、そうでなけれ
ば、人類の究極の助かりには、なってこないという確信を持つんです。初代の最後
のお言葉は、「起こしてくれんの」だったでしょう。キリストを起こし、教祖を起
こし、初代を起こすことは、私の大使命だ、と思います。そして、合楽理念を起こ
すということが、教祖を起こし、キリストを起こす事になります。これが、もし皆
さんの中で実感出来ないならば、合楽理念の内容が分かっておらんという事です。
だから、せめて、来年までのこの一年間、「楽はしません」という思いで、成り行
きを尊んでいきたいと思います。私が言う、「楽はしません」というのは、禁欲主
義ではありません。というて、快楽主義でもないんです。合楽の生き方は、「楽は
すると思うな、楽はさせてもらうもの」という、神様のご親切にふれながらですか
らね。
まあ神ながらに、ちょうど一年になりましょうか、金光教ルネッサンスという
ことで、合楽五十年の総括、金光教百年の総括、そして人類二千年の総括という大
きなテーマを神様が下さったわけです。そういう意味合いで、何がいけなかったの
か、何を残すべきなのか、その総括をどうでも成し遂げねばなりません。そのため
に、来年に向けてのテーマが「私の総括」となったそうです。もう一遍「私の合楽
への道」を明らかにしていただきたいと思います。どうぞ。
<合楽教会御理解目次へ戻る> <日本語表紙へ戻る>
--------------------------------------------------------------------------